[追悼]鈴木修氏の偉大なる功績
皆さん、こんにちは。
先日、非常に悲しいニュースが入ってきました。スズキを世界のスズキへと成長させた鈴木修氏の訃報です。
心よりお悔やみ申しあげます。
今回は、鈴木修氏の偉大なる功績について詳しく話していきます。
鈴木修氏の簡単な経歴
まず鈴木修氏の簡単な経歴から話していきます。
鈴木修氏は1930年1月30日に岐阜県下呂市にて生まれました。
中央大学を卒業後、中央相互銀行に入行しました。
そして1958年に現在のスズキ株式会社に入社し、1978年に社長に就任しました。
その後40年以上にわたりスズキのトップを務め、日本国内外でスズキのブランドを確立しました。
浜松のスズキから世界のスズキへ。そして軽自動車を国民車へ育てた偉大な人物でした。
儲けは小さくて良い!?インド市場での成功
鈴木修氏の最大の功績の1つは、インド市場への進出です。
実はスズキはインドにおける自動車シェア率がナンバーワンです。
1983年、インドにてマルチ・スズキを設立し、現地での自動車生産を開始しました。
鈴木修氏ががインドを始めとする世界へ進出した理由は「どこかの国でナンバーワンカンパニーになる」為でした。
インドの陰に隠れていますがパキスタンとハンガリーでもナンバーワンのシェアを誇っています。
鈴木修氏が海外に進出する際に大切にしていたことがあります。
それは「エントリー層のお客様を大切にすること」でした。
過去に鈴木修氏は「儲けは小さくていいんだ」と語っていました。
その言葉の通りにスズキはクルマを初めて購入するお客様でも購入しやすいように低価格を実現。
その結果、現在ではスズキがインド市場で圧倒的なシェアを占めており、累計販売台数は3000万台に上りました。
さらに、インドにて販売ディーラー網を地方部にまで広げるとともに、病院や学校などを設立しました。
クルマを販売するだけではなくインドに尽くす姿勢もインドにて成功した要因の1つと言えるでしょう。
日本における偉大な功績
現在日本にて国民車として広く普及している日本の独自規格である軽自動車。
実は軽自動車を国民車にまで育て上げたのも鈴木修氏の功績の1つです。
鈴木修氏は維持費が安く、日本の道路事情に合った軽自動車の開発に注力しました。
徹底したコストカットなどで低価格を実現。鈴木修氏は軽自動車の普及を牽引してきたいわば軽自動車の産みの親と言えます。
現在でも軽自動車のシェアナンバーワンはスズキであり、日本人の生活を支えています。
(スズキの軽自動車)
(引用元はこちら)
心が温まるエピソード
鈴木修氏は経営者としてだけではなく、人間性の面でも評価されています。
インドはカースト制度が根強く残っている国の1つです。そのこともありインド進出当時、インド人の幹部は2階にある自分の執務室で食事をとっていました。
しかし、鈴木修氏はカーストに関係なく、従業員と同じ食堂で列に並び食事を共にしました。
その行動を2階から見たインド人の幹部達は驚きを隠せなかったそうです。
その後も鈴木修氏は毎月工場を訪れて、従業員と同じ食堂で列に並び食事を共にしていました。
そうすると半年後、インド人の幹部も鈴木修氏のように従業員と同じ食堂で列に並び食事を摂るようになりました。
この出来事は鈴木修氏、そして現地の従業員によって語り継がれているそうです。
世界から寄せられた追悼のメッセージ
鈴木修氏の訃報を受け、世界中から追悼の言葉が寄せられています。
インドのモディ首相は「鈴木修氏の死去に深く悲しんでいいます。鈴木修氏は世界の自動車業界における重要な存在だった。そしてインドの自動車市場に革命をもたらした。」とXにて日本語でコメントをしました。
トヨタ自動車の豊田章男会長は「心よりお悔やみ申しあげます。鈴木修氏は日本の軽自動車を発展させ、国民車にまで育て上げられた憧れのおやじさんで憧れの経営者でした」とコメントを発表しました。
(笑顔で会見をするスズキ株式会社鈴木修社長※当時とトヨタ自動車株式会社豊田章男社長※当時)
(引用元はこちら)
まとめ
鈴木修氏が残した功績は、スズキ株式会社だけでなく、世界の自動車産業全体に多大な影響を与えました。
彼の情熱とリーダーシップ、そして人間性は、皆さんにとっても学ぶべき姿勢だと思います。
最後にこの言葉を伝えたいと思います。
鈴木修氏が40年以上にわたりスズキのトップを務められ、会長退任時のコメントです。
「生きがいは仕事です。挑戦し続けることは人生ということでもありますから、皆さんも仕事をし続けてください。バイバイ」
鈴木修氏の死去に改めて心よりお悔やみ申しあげます。
最後までありがとうございました。