1963年に発行された1000円札の顔、伊藤博文
伊藤博文は、吉田松陰の松下村塾に入り、高杉晋作らとともに学んでいました。
その後、桂小五郎の従者になり、江戸に行き、尊王攘夷運動にも参加しました。
また、伊藤博文は22歳の時にイギリスへ留学に行っています。
イギリスへは、井上馨らとともに、長州藩の留学生として渡りました。ロンドンでは英語を学んでいたそうです。
イたギリスを見て、日本は外国には到底太刀打ちできない、と感じていたところに、長州藩が外国船を砲撃したことを知り、長州藩の攻撃をやめさせるために慌てて帰国しました。
ですが、伊藤博文の努力も虚しく、四国連合艦隊は長州藩を攻撃してしまい、長州藩は敗北してしまいました。
その事件を下関事件というのですが、下関事件の講和の際には通訳を務めました。
そして、明治政府でも堪能な英語が重宝され、伊藤博文は岩倉使節団の一員として、ヨーロッパを視察しました。
その際に各国の憲法を調べて回り、プロイセン(ドイツ)の憲法を参考に日本の憲法の草案を作りました。
その間に、伊藤博文は日本初の内閣総理大臣に就任しています。
1951年に発行された500円札の顔、岩倉具視
岩倉具視は、公武合体から王政復古に向けて尽力した人物です。
西郷隆盛らとともに、「王政復古の大号令」を発令し、徳川幕府を廃絶し、公家社会を無くして新政府を樹立したことを宣言したのです。
これによって、徳川幕府は力を失うことになりました。
他にも、岩倉具視といえば、岩倉使節団のトップとして欧米にわたったことで有名ですね。
では、岩倉具視は欧米で何をしたのでしょうか。
結果は失敗に終わってしまいましたが、日本の開国直後に結ばされてしまった、領事裁判権や関税自主権などの不平等条約の改正に尽力しました。
また、鉄道など様々な進んだ技術を自分の目で見て、それを日本に持ち込もうとしました。
そして、欧米で様々なことを学んだことから、征韓論に反対していました。
岩倉具視は日本の近代化に大きく貢献した人物なのです。
また、岩倉具視の死因はがんと言われていますが、日本で初めてがんと宣告された人物でもあります。
1951年に発行された50円札の顔、高橋是清
そもそも50円札というのがあったのが、驚きですね。今は1000円未満は全て硬貨のため、目にする機会がほとんどないですよね。
高橋是清は明治時代には日本銀行総裁、大正時代には内閣総理大臣、昭和時代までの間に計7回も蔵相を務めたというすごい経歴の持ち主です。
また、留学経験があったため、英語が得意で、ちょうど外国との交流が盛んになり始めた時期ということもあり、需要の多い英語教師という職についていたときもありました。
世界恐慌の余波による昭和恐慌からの立て直しなど、何度も日本の経済危機を救うこともしました。
ですが、順風満帆そうに見える高橋是清の人生に雲がかかり始めます。
それは、満州事変です。
満州事変以降、軍を増強しようとしていた日本軍は、政府に国債を軍事費に使うように求めました。
ですが、高橋是清は何度もそれを退けたのです。
これがきっかけで日本軍の反感を買ってしまった高橋是清は、ついに青年将校らに自邸に踏み込まれ、銃弾に倒れるのです。
これが「二・二六事件」と呼ばれる事件です。
ちなみに、ふっくらとした顔立ちから「だるま宰相」という愛称がついていたそうです。
以上、過去のお札の顔となった偉人についてでした!




