清
概要
明の後に中国を支配した清のお話です。 欧州が本格的に進出してくる18世紀の前までをここでは扱います。
異民族を「飴と鞭」のような政策で統治しました。
まとめ→中国王朝
時代
1616年〜1912年
詳細
政治
前半
1616年、女真族(後の満洲族)を従え、ヌルハチが東北地方で建国します。
軍隊制、八旗を編成するなどで勢力を強めると、2代の太宗 ホンタイジは領土を広げ皇帝を名乗り、国号を清と定めます。
1644年に李自成が明を滅ぼすと、清との国境を守っていた呉三桂は清に降伏し、北京へと進入、ここを首都とします。
呉三桂は南方の三都市の一つの藩王となりますが、撤廃を図られたため他の藩王とともに三藩の乱を起こしますが、鎮圧されます。
また、オランダを退け、清支配に対抗していた台湾の鄭成功も4代康熙帝が鎮圧し、清朝統治の基礎を築きました。
その後5代雍正帝、6代乾隆帝と有能な皇帝が続き、繁栄してゆきます。
後半
しかし、18世紀末、農民の貧困化や社会不安を背景に白蓮教徒の乱が起こり、清の財政を圧迫しました。
アヘン戦争(「外交」参照)後の中国では、社会不安を背景に洪秀全を指導者に、拝上帝会が結成され太平天国の乱が起こりました。
彼らは 「滅満興漢」 を掲げ、清朝の打倒を目指しました。
しかし、政府側の曽国藩や李鴻章率いる郷勇や、ゴードンの率いる常勝軍によって太平天国の乱は滅ぼされました。
その後、曾国藩らによって、西洋の学問や技術を導入する洋務運動が起こりましたが、 「中体西用」 の立場を取り、形骸的なものにとどまりました。
日清戦争後の列強の侵略に対して、中国では康有為や梁啓超らによって戊戌の変法と呼ばれる根本的な制度改革が推し進められました。
しかし、改革に反対する保守派が西太后と結んで戊戌の政変を起こし、改革は失敗に終わります。
扶清滅洋を唱えた義和団が蜂起したことに対して、日本やロシアなど8か国の連合軍が介入して、北京を占領する義和団事件が起こりました。
義和団事件に敗れた清朝は、科挙の廃止や憲法大綱の発布、国会開設の公約などの改革を行いました。
興中会を指導していた孫文は中国同盟会を組織し、民族主義・民権主義・民生主義の三民主義を掲げました。
清朝の出した幹線鉄道の国有化に対して、四川暴動が起こり、武昌で革命派が蜂起し辛亥革命が始まりました。
南京では、孫文を臨時大総統とする中華民国が建設されました。
さらに清朝側だった袁世凱が、革命軍に協力したことで、宣統帝が退位し、300年ほどの清朝が終わるとともに、2000年以上にも及ぶ皇帝政治が終焉を迎え、中華民国となります。
制度
軍隊は、初期から編成された八旗に加え、漢人のみで構成する緑営を組織します。
また、新しく領土とした新疆などの外縁部の地域は藩部として理藩院に統括させます。 藩部の一つ、モンゴルではダライ=ラマが支配者として統治するなど、現地の指導者を起用していました。
外交政策として海禁政策が挙げられます。 貿易ができるのを国家指定の通商人に限定する政策で、鄭成功らの財源を断つことなどが目的でした。 そのため支配が安定すると規制を緩め、そのことで交易は盛んになり、銀の流入が国内商業を支えます。 乾隆帝はヨーロッパ船の来航を広州1港に限定し公行という組合に管理させました。
北部のロシアとの国境も、康熙帝の頃ネルチンスク条約によって定められ、清の時代に現在の中国の領土の基礎が固められます。
中央管制は満州人と漢人が同数で行われ、皇帝直属の軍機所が設置されます。
藩や中央などで被支配民族を尊重する姿勢を見せた一方で、満州人の風習、辮髪の強制や文字の獄などの統制も見せます。
政治が安定すると人口も増えたため、地丁銀制により税制の簡素化が図られました。
外交
初期
初期の外交政策として海禁政策が挙げられます。 貿易ができるのを国家指定の通商人に限定する政策で、鄭成功らの財源を断つことなどが目的でした。 そのため支配が安定すると規制を緩め、そのことで交易は盛んになり、銀の流入が国内商業を支えます。
乾隆帝はヨーロッパ船の来航を広州1港に限定し公行という組合に管理させました。
北部のロシアとの国境も、康熙帝の頃ネルチンスク条約によって定められ、清の時代に現在の中国の領土の基礎が固められます。
縮小
19世紀初め頃から、イギリスでは中国の茶が大量に輸入され、銀が大量に流出したため三角貿易を始めました。
その結果、中国ではアヘンが流行し、林則徐が取り締まります。
その緩和を求めて アヘン戦争 が起こり、敗れた清は南京条約で香港島の割譲、上海など5港の開港、公行の廃止などを認めました。
また、イギリスやアメリカ合衆国、フランスと、領事裁判権や関税自主権の喪失を認める不平等条約を結びました。
アロー号事件を口実に、イギリスはフランスと共同で清に出兵し、アロー戦争が起こりました。
敗れた清は北京条約でキリスト教布教の自由を認め、イギリスに九竜半島南部を割譲しました。
ロシアは清と北京条約を結び沿海州を獲得し、ウラジヴォストーク港を開いて、またイリ条約で清との国境を有利に取り決めました。
また清では、外務省(=他国と対等な立場で交渉する機関)である総理各国事務衙門が設置されるなどで朝貢体制が崩れ始め、琉球などの地域は清の影響圏から分離していきました。
19世紀末には、甲午農民戦争をきっかけに日清戦争が起こり、敗れた清は下関条約で日本に遼東半島や台湾などの割譲を認めました。
中国分割
日本が下関条約で遼東半島を獲得したことに対してロシアはフランス・ドイツとともに、これを清に返還させる三国干渉を行い、その代償として清から鉄道の敷設権を得ました。
またドイツは膠州湾を租借し、ロシアは遼東半島南部、イギリスは威海衛と九竜半島北部、フランスは広州湾を租借しました。
またアメリカのジョン=ヘイは、中国の門戸開放・機会均等・領土保全を提唱しました。
義和団事件に破れた清は、北京議定書で賠償金の支払いや北京への外国軍の駐屯などを認めました。
文化
学問を国は優遇し、『康熙字典』『古今図書集成』『四庫全書』を編纂させます。
実証を重視した顧炎武に続いた、銭大昕は考証学を大成します。
小説は『紅楼夢』などが人気を博します。
イエズス会宣教師は技術者として重用されました。 「皇輿全覧図」の作成に協力したブーヴェ、円明園の設計にかかわったカスティリオーネなどがその例です。
しかし、儀礼に関わり論争が起き(典礼問題)、雍正帝の時代にキリスト教の布教全てが禁止されます。
関連単語
アロー戦争 / 義和団事件 / 光緒新政 / 呉三桂 / 女真族 / 孫文 / 太平天国の乱 / チベット / 鄭成功 / 日清戦争 / 八旗 / 変法自強運動 / 洋務運動