中華民国
概要
世界大戦時の中國、中華民国についてです。
共産党と国民党の対立構造が根幹をなしますが、抗日を起点に二度の合作が成立しました。
まとめ→中国王朝
時代
1912年〜1949年
場所
詳細
一次大戦
清朝が終わり、袁世凱政権となった中華民国は、第一次世界大戦中、日本に二十一ヵ条の要求を突きつけられます。
1919年のパリ講和会議で取り消しを主張しますが、列強により退けられ、これに対し幅広い層が参加する愛国運動が起こります。(五・四運動)
また中華民国の勢力は南部に留まり、北部には軍閥が割拠していました。
第一次国共合作
そんな中国では、陳独秀率いる中国共産党(左派)と、孫文率いる中国国民党(右派)という二大派閥が出来上がります。
24年、右派である国民党が接近の姿勢を見せ、共産党員の入党を受け入れたことで第一次国共合作が成立します。
「連ソ・容共・扶助工農」を掲げて帝国主義に抵抗し、五・三〇運動などのきっかけとなります。
25年、国民党は広州に国民政府を樹立し、翌年から勢力を北に広げるため蒋介石率いる国民革命軍が北伐を開始します。
国共分裂
27年、党内で右派と左派の対立が深刻になり、右派であった蒋介石は左派(主に共産党員)を弾圧する上海クーデタを起こし、南京に国民政府をたて直し、主席となります。(国共分裂)
奉天軍閥の張作霖は28年、北伐軍に敗れたのですが、軍閥を支援していた日本軍は彼の乗っていた列車を爆破し死亡させます。(張作霖爆殺事件)
そのことで彼の子である張学良は日本に対抗するため抵抗をやめ、国民政府の支配を認めたことをもって国民政府の中国統一は達成されます。
国民党はアメリカなどにも支援され、国民党一党での統一政権を目指し、共産党軍への攻撃や通貨の統一などを行います。
一方共産党は蜂起に失敗したことで、農村でのソヴィエト政権樹立を目指します。
率いた毛沢東は瑞金に中華ソヴィエト共和国臨時政府をたて、国民党に対抗しました。
国民政府の攻撃を受けた共産党軍(紅軍)は、奥地を目指す長征を行います。
第二次国共合作
31年、日本軍は柳条湖事件を機に満州事変を起こし、溥儀(宣統帝)をたてた満州国を建国します。
リットン調査団により日本の軍事行動の不適切性が調査され、日本は国際的に批判を受けますが、中国への姿勢を変えることはありませんでした。
これを受けて抗日運動は広まり、日本に対抗するため共産党は八・一宣言を出し民族統一戦線結成を呼びかけます。
張学良の説得(西安事件)により蒋介石もこれを受け入れ、第二次国共合作が成立しました。
37年の盧溝橋事件をきっかけに日本軍は軍事行動を拡大し、日中戦争へと突入します。
これに押され、国民政府は首都を重慶まで移し抗戦しました。
日本軍は汪兆銘を擁立し南京に親日政権を樹立しますが、国民の支持を得られず膠着状態となります。
中国統一
日本が第二次世界大戦で破れると、日本軍は撤退します。
そのことで、抗日精神で結びついていた国共は再び対立しました。
蒋介石率いる国民党政権(右派)はインフレなどで批判を浴び、毛沢東率いる共産党(左派)が国民の支持により勢力を伸ばします。
そして1949年、蒋介石は台湾にのがれ中華民国政府をたて、本土では毛沢東を主席、周恩来を首相とする 中華人民共和国 が成立し、統一が達成されました。