ヒトラー
概要
世界恐慌後からドイツで政権を握り、ファシズム国家の指導者として第二次世界大戦を戦った人物。
厳しい統制のある独裁体制を敷いた一方で、社会事業やユダヤ人の排斥などで巧みに国民の支持を集めた。
世界大戦では枢軸国としてイタリアや日本と組んで戦い、敗北した。
まとめ→大戦
時代
1889年〜1945年
場所
詳細
蜂起の失敗
1923年のルール占領とそれによって始まったインフレの進行でドイツは動揺し、ヴァイマル共和国政府に対する左右両派からの批判が強まります。
ヒトラーはこれを好機とみて共和国政府の打倒と軍事政権の樹立を試み、ミュンヘン一揆を起こしました。
しかし国防軍や官僚の反対に遭って失敗し投獄され、獄中で『わが闘争』を著しました。
ナチ党の台頭
世界恐慌が起こると、アメリカ資本への依存が大きかったドイツはすぐに大打撃を受け、失業者が急増します。
ヒンデンブルク大統領の意向で少数派内閣が成立、デフレと増税で対応しようとしますが国会に拒否されます。
その後開かれた総選挙で大勝したのが、ヒトラーの率いた、ヴェルサイユ体制の打破、ユダヤ人の絶滅、共産主義の排除を唱えて国民感情を捉えた国民社会主義ドイツ労働党(ナチ党) でした。
33年に首相に任命されると、国会議事堂放火事件を利用してドイツ共産党を非合法化、全権委任法を定めて独裁政権を完成させました。
34年にヒンデンブルク大統領が亡くなったことで彼が総統となり、全権を握ったことでヴァイマル共和国は終わりを迎え、ナチス=ドイツとなります。
ナチス=ドイツの国内政策
親衛隊(SS) ・国家秘密警察(ゲシュタポ) などで統制を強め、言論・政治活動の自由を奪うなど、全体主義・軍国主義の色彩の強いファシズム体制を取りました。
一方で、経済の国際化からの分離による経済的安定、アウトバーンの建設などでの雇用増大や大衆宣伝により人心を捉えます。
またユダヤ人排斥政策を取ってドイツ人の団結を訴えました。 35年のニュルンベルク法でそれを推進する法整備を行い、さらに38年には反ユダヤ人の暴動を扇動してユダヤ人の居住区ゲットーを襲撃する水晶の夜の惨劇を引き起こし、国民の目をユダヤ人排斥へと向けました。
対外での戦況が思わしくなくなってきた40年ごろからは、アウシュヴィッツ強制収容所の建設や、ガス室によるユダヤ人の大量殺害(ホロコースト)も行われるようになりました。
対外政策
国際連盟を脱退しますが、英仏には 宥和政策 をとらせ、35年に英独海軍協定を結んでイギリスに再軍備を認めさせ、36年にはヴェルサイユ条約とロカルノ条約を無視してラインラント進駐を実行するなど、「ヴェルサイユ体制の打破」の公約を守る政策をすすめます。
36年にはイタリアのムッソリーニとともに、スペイン内戦に介入、その後ベルリン=ローマ枢軸を形成しました。
さらに同じくファシズム体制をとる日本との間で、共産主義に対する共同防衛を建前とした日独防共協定を締結、翌年それはイタリアを加えて三国防共協定に発展しました。
38年にはドイツ民族の統一を目指してオーストリア併合を実現し、また同じ理由でチェコスロバキアのズデーデン地方の割譲を要求、ミュンヘン会談では宥和政策を引き出してこれを容認され、その勢いのままチェコスロバキア解体を実行しました。
次なる政策として、ダンツィヒの併合とポーランド回廊の鉄道建設、自由通過の要求を拒否したポーランドへの侵攻を企てます。
このことで英仏に攻められることを警戒したヒトラーは、英仏が同様に警戒していたソ連のスターリンと独ソ不可侵条約を結んで世界を驚かせました。
第二次世界大戦
39年にポーランド侵攻を成功させ(第二次世界大戦の開戦)、40年にフランスにも攻め込み降伏させますが、イギリスとは膠着状態に陥ります。
日独伊三国防共協定を三国同盟(日独伊三国軍事同盟) へと発展させ、41年にヒトラーは方向を転じて、バルカン侵攻を開始、さらに6月に独ソ不可侵条約を破棄してソ連に侵攻、独ソ戦を開始します。
ソ連は米英の大西洋憲章に賛同しており、日本もアメリカとの太平洋戦争を開始していたことから、枢軸国と連合国という二陣営による世界大戦という構図が明確となりました。
ドイツ軍は東西2戦線で戦うこととなり、苦戦を強いられます。
43年のスターリングラードの戦いに敗北したことを機にドイツは後退を始め、連合国側の態勢が整うに伴って不利な戦いとなっていきます。
7月にはイタリアが降伏し、44年6月に連合国軍がノルマンディー上陸作戦を実行、次第に追いつめられて45年4月にヒトラーは自殺、5月にドイツは無条件降伏しました。