スターリン
概要
ソ連初期の指導者。
トロツキーとの政権争いを制すると、二度にわたる五カ年計画で共産化を進め、独裁体制を強めた。
第二次世界大戦では、直前に独ソ不可侵条約で世界を驚かしたものの最終的には反ファシズムの方針で一致した連合国として戦った。
戦後はアメリカとの冷戦を強硬な姿勢で戦った。
時代
1878年〜1953年
場所
詳細
独裁権力の掌握
ソ連の成立に大きな功績をあげたレーニンの死後、スターリンは主導権を巡ってトロツキーと争うようになります。
スターリンはソ連のみで社会主義革命を成し遂げようとする一国社会主義論を唱えた一方で、トロツキーはコミンテルンなどに見られる精神、世界革命論を唱えていたからでした。
スターリンはこの争いを制し、1928年から急速な工業化と農業の集団化を柱とした第一次五カ年計画を立案、その指導に当たります。
同時に激しい粛清が行われ、独裁的に強行されたこの政策によりますます権力を集中させ、スターリンが個人崇拝されるほどにまで至りました。
1933年からは第二次五カ年計画を推進し、スターリン憲法の制定により独裁的な「スターリン体制」が確立されます。
大戦期
それまで非公認の国家であったソ連でしたが、33年にはアメリカが承認、34年には国際連盟に加盟したことで正式な国家として国際社会に関わることとなります。
ドイツやイタリア、日本などのファシスト国家の勢力が増すようになると、コミンテルン第7回大会で反ファシズムを宣言、仏ソ相互援助条約、中ソ不可侵条約(中国は日本と対立していた)を結びました。
しかしイギリスが宥和政策を取ったことへの不信感やドイツがポーランド侵攻を望んでいたこと、日本との対立であるノモンハン事件が起こったことなどから、全世界に衝撃を与えたヒトラーとの 独ソ不可侵条約 の締結がなされます。
ドイツがポーランド侵攻を始める(=第二次世界大戦の勃発)と同時にソ連もポーランドに侵攻し、分割支配します。
フィンランド、バルト三国なども併合し、その不当性から国際連盟を除名されました。
ドイツの西部戦線が膠着すると、スターリンは今度は対独戦を決意して日ソ中立条約を締結、1941年に独ソ戦が開始されます。
大西洋憲章の支持やコミンテルンの解散など、連合国側につく姿勢を明確にしたスターリンは43年テヘラン会談に参加、ドイツに対する第二戦線の形成と対日参戦を定めました。
優勢が明らかになってきた45年2月、ヤルタ会談 に参加して戦後処理を話し合いましたが、アメリカとの牽制はこの頃から始まっていました。 7月にはポツダム会談を開催し、日本への侵攻を開始しました。
冷戦初期
第二次世界大戦の勝利国となったソ連でしたが、維持されたスターリン体制に対する米英などの反発は次第に浮き彫りになっていきます。
英・チャーチルの鉄のカーテン演説に始まり、「封じ込め政策」を明らかにした米・トルーマン=ドクトリンの発表、マーシャルプランによる欧州の牽制などの対共産政策がとられました。
これに対してソ連がコミンフォルム(共産党情報局) を結成し、東欧への介入を強めたことで冷戦の状態が確立しました。
ベルリン封鎖やユーゴスラヴィアのコミンフォルム除名などの政策を進め、経済援助体制コメコンを結成して共産諸国の足並みを揃えようとします。
49年には核実験を成功させて牽制を強めるとともに、50年には中ソ友好同盟相互援助条約を締結、朝鮮戦争では中国を支援しました。
53年にスターリンが死去するとフルシチョフが指導者となり、「スターリン批判」を行うなどの歩み寄りの時代へとなりました。