独ソ不可侵条約
概要
1939年に結ばれた、ソ連とドイツの相互不可侵を定めた条約。
反ファシズムを掲げていたソ連と、ファシズム国家ドイツの提携であったため他国への衝撃は大きかった。
宥和政策への両国の不信と、ソ連の対日、ドイツのポーランド侵攻への兵力集中のため結ばれた。
流れ→第二次世界大戦
まとめ→大戦
時代
1939年
詳細
全世界に衝撃を与えた、反ファシズムを掲げていたソ連と、ファシズム国家ドイツの提携の背景には、ソ連、ドイツ双方に動機が存在していました。
まずソ連には、英仏への不満がありました。
本当は反ファシズムの連携が取りたいのに、ドイツのオーストリア併合、ズデーデン地方の割譲要求に対して開かれた、英仏独伊によるミュンヘン会談に呼ばれず、さらにイギリスは 宥和政策 をとったことが不満だったのです。
会談に呼ばれなかったのは、英仏の社会主義に対する不信感があったからだと考えられます。
そして日本との軍事衝突ノモンハン事件が起こると、ドイツとの戦争が勃発することは、英仏の協力も得られない場合に兵力の分散が求められて不利になると考えたため、スターリンは接近を望んだのです。
ドイツ側の動機には、東西から攻められることを避けたかった、というものが挙げられます。
宥和政策を取られながらも、英仏と対立関係にあったドイツのヒトラーは当時、ポーランド侵攻を企てていました。
もしこれにより英仏が宥和を撤回し西側から攻め込んできて、東からはロシアに迫られるとすれば東西両側で戦う必要がありますが、それは兵力的に避けなければなりません。
このようにして、曖昧な態度が引き起こした 「英仏への不信」 と、「兵力の集中」 という2点で思惑が一致した独ソは手を組むこととなったのです。
世界中に衝撃を与えた独ソ不可侵条約でしたが、それに最もと言っていいほど衝撃を受けたのが日本でした。
日本は、ソ連とはノモンハン事件で敵対する関係、一方ドイツとは日独防共協定で提携している関係であったからです。
これに対し、当時の総理大臣平沼騏一郎は、欧州の事情は「複雑怪奇」との声明をだして内閣総辞職するにまで至りました。
$$\text{ヒトラーとスターリンの提携を表す風刺画}$$