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ソヴィエト社会主義共和国連邦


概要

第一次世界大戦中から始まったロシア革命によって1922年に成立した、ロシア共和国を中心とした連邦国家で、ソ連共産党の一党独裁に置かれた。

初期にはスターリンが厳しい統制体制、「スターリン体制」を敷き権力の集中を図った。

第二次世界大戦では最終的に連合国側として終戦を迎えたが、その後の指導権を巡ってアメリカと対立、冷戦が始まることとなる。

フルシチョフが緩和政策を取るも、ブレジネフにより緊張関係に戻される。

ゴルバチョフにより民主に歩み寄る政策が取られ、各国が独立を宣言したことによって1991年に解体された。

流れ→ロシア革命現代ロシア冷戦

まとめ→大戦ロシア

時代

1922年〜1991年

場所

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詳細

スターリン

スターリン体制と五カ年計画

レーニンを指導者としていたソヴィエト=ロシアに加え、ウクライナなどの社会主義国が合わさり1922年に成立した国家が、ソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連) です。

首都はモスクワに置かれました。

レーニンが成立直後に指導から離れ死去すると、ともにロシアを率いてきたトロツキーと、一党独裁していたロシア共産党の書記長スターリンが方針を巡って対立します。

トロツキーはコミンテルンなどに見られる精神、世界革命論を唱えたのに対し、スターリンはソ連のみで社会主義革命を成し遂げる一国社会主義論を唱えたからでした。

この争いを制したのはスターリンで、1928年から急速な工業化と農業の集団化を柱とした第一次五カ年計画を立案、その指導に当たります。

激しい粛清が行われ、独裁的に強行されたこの政策によりますます権力を集中させ、スターリンが個人崇拝されるほどにまで至りました。

1933年からは第二次五カ年計画を推進し、スターリン憲法の制定により独裁的な「スターリン体制」が確立されます。

第二次世界大戦

それまで非公認の国家であったソ連でしたが、33年にはアメリカが承認、34年には国際連盟に加盟したことで正式な国家として国際社会に関わることとなります。

ドイツやイタリア、日本などのファシスト国家の勢力が増すようになると、ソ連は反ファシズムを掲げるようになり、仏ソ相互援助条約、中ソ不可侵条約(中国は日本と対立していた)を結びました。

しかしイギリスが宥和政策を取ったことへの不信感やドイツがポーランド侵攻を望んでいたこと、日本との対立であるノモンハン事件が起こったことなどから、全世界に衝撃を与えたヒトラーとの 独ソ不可侵条約 の締結がなされます。

ドイツがポーランド侵攻を始める(=第二次世界大戦の勃発)と同時にソ連もポーランドに侵攻し、分割支配します。

フィンランド、バルト三国なども併合し、その不当性から国際連盟を除名されました。

ドイツの西部戦線が膠着すると、スターリンは今度は対独戦を決意して日ソ中立条約を締結、1941年に独ソ戦が開始されます。

大西洋憲章の支持やコミンテルンの解散など、連合国側につく姿勢を明確にしたスターリンは43年テヘラン会談に参加、ドイツに対する第二戦線の形成と対日参戦を定めました。

優勢が明らかになってきた45年2月、ヤルタ会談 に参加して戦後処理を話し合いましたが、アメリカとの牽制はこの頃から始まっていました。

7月にはポツダム会談を開催し、日本への侵攻を開始しました。 CD9B9455F642460BAC743E102ABFBF13.png

894A605BDC974CB0A5AAFCB73C139185.png 左からチャーチル、ルーズベルト、スターリン

冷戦初期

第二次世界大戦の勝利国となったソ連でしたが、維持されたスターリン体制に対する米英などの反発は次第に浮き彫りになっていきます。

英・チャーチルの鉄のカーテン演説に始まり、「封じ込め政策」を明らかにした米・トルーマン=ドクトリンの発表、マーシャルプランによる欧州の牽制などの対共産政策がとられました。

これに対してソ連がコミンフォルム(共産党情報局) を結成し、東欧への介入を強めたことで冷戦の状態が確立しました。

ベルリン封鎖やユーゴスラヴィアのコミンフォルム除名などの政策を進め、経済援助体制コメコンを結成して共産諸国の足並みを揃えようとします。

49年には核実験を成功させて牽制を強めるとともに、50年には中ソ友好同盟相互援助条約を締結、朝鮮戦争では中国を支援しました。

フルシチョフ

53年にスターリンが死去し、フルシチョフが書記となると全面対立の空気は一時緩和し、朝鮮戦争の休戦協定が締結されます。

軍事機構ワルシャワ条約機構を結成するなど、対立風潮は残りもしましたが、ジュネーヴ4巨頭会談での平和共存路線や、フルシチョフのスターリン批判などで 「雪解け」 と呼ばれる状態となります。

56年に日ソ共同宣言を発表し国交を回復、コミンフォルムも解散します。

この転換に対し、中国共産党の毛沢東は批判、中ソ対立が始まりました。

ブレジネフ

緩和していた冷戦でしたが、62年のキューバ危機により再び緊張状態に入り、フルシチョフに代わりブレジネフが第一書記に、コスイギンが首相となりました。

ただキューバ危機でソ連が全面対決を避けたことを毛沢東が批判したことで、中ソ対立は引き続き存在し、69年には珍宝島事件(ダマンスキー島事件) で中国と武力衝突を起こします。

68年、社会主義国チェコスロバキアでドプチェクによる「プラハの春」と呼ばれる民主化改革が起こると、ブレジネフはブレジネフ=ドクトリンに基づき軍事介入するなど、社会主義陣営の統制を強めようとしました。

70年代にはアメリカとの緊張緩和(デタント) を進めますが、79年にアフガニスタン(アフガン)侵攻をし、対決色が強まります。

80年にポーランドの民主化が始まると、次第に改革の必要性が認識されるようになりました。

ゴルバチョフ

そんな中ブレジネフは死去し、85年からゴルバチョフが書記となり、改革を進めます。

グラスノスチ(情報公開)」と「ペレストロイカ(改革)」を掲げて市場経済の導入を図ります。

また「新思考外交」を掲げ緩和政策を取り、中ソ関係の正常化ベルリンの壁解放、ベオグラード宣言による東欧諸国の民主化の促進などの外交を進め、89年末に米・ブッシュ大統領との間のマルタ会談で冷戦の終結を宣言しました。

そして90年に大統領制に移行、共産党一党体制を改めることを表明しますが、バルト三国、ロシア共和国がエリツィンの指導のもとで、ソ連からの独立を宣言します。

91年ソ連の解体を宣言し、代わりに独立国家共同体(CIS)を創設したことで合意したことでソ連が消滅しました。

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