【源平の戦い】なぜ壇ノ浦?
皆さん、こんにちは。
皆さんが歴史の授業で習った「源平の戦い」。
この源平の戦い、最終的には1185年3月、壇ノ浦の戦いにて、平家側の安徳天皇が入水し、平家が崩壊したことで、6年にも及んだ源平合戦は幕を閉じました。
ところで皆さん「なぜ壇ノ浦で決着がついたのか?」考えたことはありますか?
今回は、「なぜ源平の戦いが壇ノ浦で終わったのか」。地理的・歴史的背景、そして実際に現地を訪れたエピソードを交えながら、紹介していきます。
源平の戦いが壇ノ浦で終わった理由
まず初めに源平の戦いについて簡単に説明をします。源平の戦いの始まりは1180年「石橋山の戦い(現在の神奈川県小田原市)」とされています。
その後、平家は源氏に押される形で西へ西へと進んでいき、現在の神戸周辺や香川県の高松周辺など、様々な場所で戦いが繰り広げられました。
そして壇ノ浦の戦い直前には平家は源氏に対して劣勢な状況となっており、特に陸路はほとんど源氏に制圧され、平家が逃げるためには海路しか残されていませんでした。
壇ノ浦が選ばれた理由
壇ノ浦が最後の決戦の地として選ばれた背景には、いくつもの要因があります。
まず1つ目の理由は、平家は海戦に自信を持っていた点です。
既に陸上での戦いでは不利な戦いが続いた中、平家は海上での戦いに可能性を賭ける事にしました。
2つ目の理由は壇ノ浦の地理的環境です。
壇ノ浦が位置する関門海峡は、地図を見れば1目で分かる通り、本州と九州を繋ぐ海峡となっています。
また瀬戸内海と日本海に面していることもあり、非常に複雑な潮の流れを伴う海峡です。
こうした地形を熟知していた平家は、地の利を活かせば勝てると考えていたとも言われています。
他にも「単純に西へ逃げた結果、たどり着いたのが壇ノ浦だった」など沢山の要因がありますが、これらが主な要因とされています。
(現在の壇ノ浦)
(山口県下関市にて著者が撮影)
壇ノ浦の戦いとその結末
こうして幕を切った壇ノ浦の戦い。しかし、最終的には源氏側の勝利に終わります。
序盤こそ地の利を生かし平家が優勢だったともされていますが、徐々に源氏が主導権を握っていきました。
最後は平家側の安徳天皇の母(建礼門院)が、安徳天皇とともに三種の神器の草薙剣※を抱えて海へ飛び込み、平家が滅亡しました。
※三種の神器として知られる(鏡・勾玉・剣)のうち草薙剣は沈んだとされている為、現在の三種の神器の剣はレプリカとされています。
実際に現地を訪れて感じたこと
著者は今年1月、実際に壇ノ浦を訪れてきました。
壇ノ浦がある関門海峡は、本州と九州を隔てる狭い海峡であり、周囲を山に囲まれた、まさに「自然の要塞」といえる場所でした。
また海路で西へ逃げようとすれば海に出るしかなく、逆に言えば、ここで戦うしかなかったという状況だったのだと実感。
さらに現在の、壇ノ浦には、当時の戦いを再現した展示物やモニュメントが多く設置されており、とても学びのある空間でした。
興味深いのは、この壇ノ浦という地が、その後も歴史の重要な舞台となったことです。
幕末には長州藩が外国軍と衝突した「下関戦争」が勃発。さらに日清戦争では講和条約「下関条約」が壇ノ浦のある下関で結ばれました。
こうして、壇ノ浦は時代が変われども、歴史の重要な舞台になっています。
(壇ノ浦の戦いを伝えるモニュメント)
(山口県下関市にて著者が撮影)
まとめ
このように、壇ノ浦は地理的な要因など様々な出来事が重なった結果、約6年間に渡った源平の戦いがこの地で幕を閉じることになりました。
皆さんも下関を訪れる機会があれば、ぜひ源平合戦の舞台となった壇ノ浦を巡ってみてはいかがでしょうか?
最後までありがとうございました。