アテネ
概要
ギリシア人によるポリスの一つ。別名アテナイ。
ペルシア戦争を経て民主政を世界で初めて確立したが、ペロポネソス戦争に敗れたのちにマケドニアに支配される。 流れ→ポリス、アケメネス朝ペルシア、ペロポネソス戦争
まとめ→ギリシャ、オリエントと地中海世界
時代
前8世紀〜前4世紀
場所
詳細
アクロポリスを中心に集住(シノイキスモス)してできた都市、ポリスの一つで、スパルタと並んで代表的なポリスです。
貴族政がとられアルコンと呼ばれる役人が大きな権限を与えられていましたが、平民たちの不満を背景に民主化が進んでいきます。
前621年にはドラコンによって法律が成文化されます。
前594年にはソロンにより財産政治(血統ではなく経済力によって参政権が定められる政治)への改革が行われます。
やがてほどなく、平民の支持を得て非合法に政治を握る僭主政が ペイシストラトス により樹立されます。
前508年に指導者となった クレイステネス は部族制改革を行い、平民と貴族の参政権を平等化するとともに、僭主の防止のための追放制度、 陶片追放(オストラキスモス) を導入します。
前5世紀前半に起きた ペルシア戦争(1)に勝利すると平民の発言権は向上し、ペリクレスが民会を基礎とする民主政(2)を完成させます。
近隣ポリスとのデロス同盟を基盤とし発展したアテネでしたが、それに脅威を感じた スパルタ率いるペロポネソス同盟とのペロポネソス戦争が始まります。
ペリクレスの死と煽動的政治家 デマゴーグ(デマゴーゴス) による政治の混乱のため敗北するものの、商工業により経済的復興をとげます。
しかし、新たな有力ポリステーベやスパルタとの争いはアケメネス朝の計らいにより絶えず、弱体化したポリス世界は マケドニアによりカイロネイアの戦いを経てコリントス同盟として支配下に置かれます。
(1) ペルシア戦争
アケメネス朝とのイオニア独立をめぐる戦いです。
ギリシャ人の一派で、ミケーネ文明の担い手であったイオニア人の建設した地方がアケメネス朝ペルシアの支配下で反乱を起こすとこれを支援し、アケメネス朝の王ダレイオス1世とのペルシア戦争が前500年に始まります。
マラトンの戦いで勝利の後、テルモピレーの戦いでは敗北しますが、サラミスの海戦、プラタイアの戦いで勝利したことでイオニアの独立が達成されます。
テミストクレスの率いた三段櫂船がこの勝利に大きく貢献したのですが、その漕ぎ手の多くは平民であったため、その発言権は向上します。
ペルシア戦争において助け合ったポリス、スパルタとはこの後に対立していくこととなります。
(2) 民主政
成年男性であれば誰でも参加・発言権をもつ直接民主制が取られていました。
役員や評議員は一般市民からくじ引きで選ばれ、任期は1年、再選は許されませんでした。
軍事の最高官職、将軍のみは選挙で選ばれ、ペリクレスは15年間選ばれ続けました。
市民間では平等な民主政が確立しますが、女性や子供、外国人、奴隷には参政権が全くありませんでした。
補足1
アテネをはじめとしたギリシア諸ポリスでは学問も盛んで、ルネサンス期のラファエロによる絵画「アテネの学堂」のテーマにもなりました。
補足2
ドラコンが法を成文化、とは言いましたが、「成文化」ってなんでしょう。
自分たちが生きる世界では法律は「成文化」されていることが当たり前ですが、当時は「成文化」されていないのが当たり前でした。
しかし、法自体がなかったわけではありません。どういうことでしょう。
「成文法」の対義語は、「慣習法」で、成文化される前は慣習法が使われていました。
その名の通り、慣習的にそうであることを「法」と呼んでいたんですね。
では、これの何が問題なのでしょうか。
それは、立場によって法さえも変えることができることです。
議会における慣習も貴族の方が慣れ親しんでいる、なぜなら貴族が権限を代々持ってきたんだから、と見なされます。 そのため、「慣習的にこうである」と貴族が主張するとそれが「法」となり正義になってしまうんですね。
そのような不平等をなくすために、法が成文化されたのです。