オスマン帝国
概要
近世で大きな存在感を持ったオスマン帝国のお話です。
イェニチェリを背景とした急速な拡大ののち、欧州で覇権を持った近代、改革と戦争の末にトルコ共和国となるまでを見ていきます。
時代
13世紀〜
場所
詳細
成立・拡大
13世紀にアナトリア高原でトルコ人の建国したオスマン帝国は、イクター制を引き継いだティマール制とイェニチェリ軍隊を武器に拡大していきます。
1453年にビザンツ帝国を滅ぼしたのを皮切りに、サファヴィー朝、マムルーク朝と次々と滅ぼしていきます。
スレイマン1世の頃最盛期を迎え、第一次ウィーン包囲やプレウェザの海戦の際の、一度は敗れたスペイン艦隊への打撃などでヨーロッパにとっての脅威になります。
フランス商人への自由な商業権を認めたカピチュレーションなどもオスマン帝国の繁栄に貢献した制度です。
縮小
しかし、第2次ウィーン包囲の失敗を契機に領土が縮小し、フランス革命の影響を受けギリシャ独立運動が起こって、支配力はさらに低下しました。
19世紀はじめに、イェニチェリの解体などの改革を進めて、オスマン帝国では、アブデュル・メジト1世がタンジマートを開始しました。
その結果オスマン帝国は、伝統的なイスラーム国家から、法治主義に基づく、近代国家へと体制を改めました。
そして クリミア戦争 後に立憲制への欲求が高まると、ミドハト憲法が発布されました。
しかしアブデュル・ハミト2世は露土戦争を口実に、議会を閉鎖し、憲法も停止し、パン=イスラーム主義を利用した、旧体制の維持を図りました。
パン=イスラーム主義は、イスラム教徒としての連帯の必要性を説いたアフガー二ーが中心となって唱えた思想です。
これに反対した青年トルコ人は政府に迫って憲法を復活させ、政権を握る青年トルコ革命を起こしました。
1912年、バルカン同盟がオスマン帝国に宣戦し、第1次バルカン戦争が起こりました。
オスマン帝国は敗北し、その後バルカン半島ではヨーロッパの火薬庫と呼ばれる不安定な状態が続きました。
崩壊
第1次世界大戦後、セーヴル条約によってオスマン帝国はアラブ地域を失いました。
これに対して、ムスタファ・ケマルはトルコ人の主権と国土を守るため、抵抗運動を指導し、トルコ大国民議会を組織しました。
そして1922年、スルタン制を廃止し、カリフ制も廃止しました。 これによりオスマン帝国が滅亡したと言えます。
1923年には、ローザンヌ条約を連合国と結び、治外法権の廃止・関税自主権の回復にも成功しアンカラを首都とするトルコ共和国を樹立しました。
ケマルは大統領となり、共和国憲法を発布し、政教分離、ローマ字の採用などの近代化政策を強力に押し進めます。 そして、そのトルコ共和国は1945年までこの体制で続いていきます。
関連単語
イェニチェリ / ウィーン包囲 / クリミア戦争 / サファヴィー朝 / スルタン / 青年トルコ革命 / ムスタファ=ケマル