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神聖ローマ帝国

概要

ドイツのもととなる東フランク王国のお話です。

フランク王国の後継者として、王が皇帝として任命されたため神聖ローマ帝国と呼ばれます。

しかし教皇に叙任権闘争やイタリア政策などで集権力は弱くなり、地方諸侯に権力は分散します。

ウェストファリア条約で実質的に解体した後は、オーストリア皇帝として統治をします。

まとめ→中世ヨーロッパ、ドイツ

時代

10世紀〜1805年(実質的には1648年)

場所

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詳細

建国

フランク王国が分裂してできた東フランク(ドイツ)では、10世紀初めにカロリング家の血統が途絶え、諸侯の選挙で王が選ばれるようになります。

10世紀半ば、マジャール人などの侵入を退けたザクセン家のオットー1世が教皇からローマ皇帝の位を与えられたことで神聖ローマ帝国が始まりました。

しかし11世紀、叙任権闘争が勃発すると、ハインリヒ4世はグレゴリウス7世に破門され謝罪するカノッサの屈辱などで権威は低下します。

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また、神聖ローマ皇帝は叙任権闘争のほか、イタリア半島へ進出する「イタリア政策」に熱心でした。

ザクセン家の後に皇帝位についていたシュタウフェン朝が13世紀半ばに断絶すると、事実上皇帝のいない「大空位時代」となります。

その混乱を鎮めるため、1356年、再び王位についたザクセン家のカール4世は「金印勅書」を発布し、七選帝侯に皇帝選出権を認め、選挙で皇帝を選出することを定めます。

これ以降、選帝侯を中心に、固有地である領邦内での集権化が進められ、皇帝にハプスブルク家が選出されるようになり、教皇に権力でまさるようになり、国内統一を図るも失敗します。

また同時期に、ドイツ人の西側地域への植民(東方植民)も行われ、ドイツ騎士団領などの諸侯国が作られ、地方集権化が進みます。

1648年、ウェストファリア条約により諸侯の主権が認められたことで帝国は実質的に解体し、以後神聖ローマ皇帝が権力を持つのはオーストリアのみとなりました。

神聖ローマ帝国を形成するオーストリア・ドイツ諸侯などがナポレオンに敗北し、三帝会戦(アウステルリッツの戦い)によって、当時神聖ローマ皇帝であった、ハプスブルク家のフランツ2世が退位し、1805年に帝国は消滅します。

ですが、フランツ2世はその後もオーストリア皇帝として権力を維持し続けます。

関連単語

イタリア政策 / 十分の一税 / 大空位時代 / 東方植民

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