清の第4代皇帝。
内外の政治に大きく貢献し、雍正帝・乾隆帝と続く清の全盛期の基礎を築きました。
流れ→清
まとめ→中国王朝
位1661~1722年

鄭成功を中心とする台湾での反乱と、呉三桂を中心とする三藩の乱を鎮圧し、清朝支配を確立しました。
彼の整えた政策は、中国の伝統的な政治に基づいたものでした。
儒教を軸とした科挙試験を実施し、満州人と漢民族の官僚人数を同数にした他、満州人の編成する八旗に対し漢民族の編成する緑営を設営するなど漢民族の地位も無下にしませんでした。
一方で満州人の風習である辮髪や纒足は強制させ、逆らうものには厳罰を与えたことで支配関係を示す側面も持っていました。
統治後期には、人頭税を地税に組み込む地丁銀制を開始しました。
外交面ではネルチンスク条約をロシアのピョートル大帝と結び、アルグン川・外興安嶺を国境としました。
ジュンガル遠征を行いチベットの支配権を奪います。
しかし、皇帝自身熱心なチベット仏教の信仰者であり、統治者であるダライ=ラマを崇敬していたため、バックアップとしての役割を大きく持っていました。
朱子学を重んじる側面をもち、『康熙字典』『古今図書集成』などを編纂させるなどした。
また、ヨーロッパの先進的な自然科学に関心を持ち、天文学を学んだフェルビーストや『皇與全覧図』を描かせたブーヴェなどの宣教師を仕えさせました。
しかし中国の伝統を尊重する布教法が教皇庁で問題となり(典礼問題)、布教方針が変わると宣教師には厳しい態度で臨むこととなりました。

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