儒学
概要
孔子によって始められた思想で、身近なものや国家への愛を説いたもの。
中国の多くの王朝において正当な学問と定められ、教養としての役割も果たした。
宋代に朱子学として大成される。
まとめ→中国王朝
時代
前6世紀〜
詳細
春秋戦国時代
春秋戦国時代の不安定な中で生まれた数多くの思想家、諸子百家の1つで、孔子がはじめたものが儒家です。
孝・悌・仁(それぞれ親・兄弟・国家への愛を指す)を最も自然な道徳心と説きました。
捉え方には幅があり、孟子は性善説を唱え孝悌と仁義は同じものと主張し、荀子は性悪説を唱え道徳行為の「礼」を重視し、これに基づく君子関係を親子関係よりも重んじました。
同じく諸氏百家である墨家をはじめた墨子は「兼愛」を唱えており、限定した愛だとして儒家の思想を批判しました。
この時代の文献としては周代の詩を集めた『詩経』、年代記『春秋』、孔子の言葉『論語』などが挙げられます。
秦
始皇帝は自らを信仰の対象としたため宗教を禁じ、法家以外の思想も「人を惑わす」として禁じられ、書物が焼かれたり学者が粛清されたりします。
この事件を「焚書坑儒」と呼びました。
前漢
前漢の後半、武帝の時代に董仲舒の献策により儒学が官学となります。
五経博士が設置され、以降儒家から宰相になるものが増えていきます。
五経は 『詩経』『易経』『書経』『礼記』『春秋』 とされ(『礼記』の代わりに『儀礼』とされることもある)、熱心に学ばれました。
儒学を通じて社会の分裂を防ぐことが期待されるとともに、天に代わる道徳的統治者としての皇帝への権力集中が図られます。
超人的な存在の受容はこの頃からで、宗教色が強くなったことから「儒教」と呼ばれるようにもなりますが、「儒教」「儒学」はほとんど同じ使われ方をします。
新
儒教の理想を掲げて国家の立て直しを図りましたが、急激な改革であったため失敗に終わります。
後漢
光武帝は儒学の普及に努め、社会にも浸透していきます。
優れた人物が登用される郷挙里選も儒学の影響を受けたものです。。
また、天意との関係も深められ、木・火・土・金・水の5元素とその循環により自然法則を明らかにしようとする五行思想が生まれました。
2世紀後半になると宦官と儒学者が対立するようになり、多くの儒学者が終身禁錮処分になる「党錮の禁」が行われました。
そんな中でも鄭玄が教典に注釈を加える訓詁学を生み出すなど研究はおこなわれていました。
魏晋南北朝時代
漢の崩壊や仏教の伝来のため、相対化する風潮が生まれます。
隋・唐
再び儒学が重視されるようになります。
隋代に始まった 科挙 の試験科目になったことから、貴族の教養としての色が強まりました。
孔穎達が『五経正義』を編纂して経典の解釈を定めるなど、儒学は発展していきます。
宋
士大夫の地位に科挙が必要とされたため、儒学の教養が盛んに学ばれました。
しかし、経典の細部を研究する訓古学の傾向からは離れ、哲学的思考が重んじられるようになります。
そのあらわれとして、四書(『大学』『中庸』『論語』『孔子』)が尊重されていました。
この新しい儒教のあり方は、北宋の周敦頤が生み出し、南宋の朱熹が大成したことから「朱子学」(宋学と呼ばれることもある)と呼ばれ、これ以降正当な学問として扱われるようになりました。