インド植民地化
概要
ムガル帝国がイギリスに敗北し支配下に置かれるお話です。
時代
1858年 ムガル帝国滅亡
1919年 第一次インド統治法
1935年 第二次インド統治法
詳細
アウラングゼーブの死後、ムガル帝国は力を失い、地方勢力が軍事抗争を繰り返していました。
イギリス東インド会社は、インドのマドラスやカルカッタを拠点に交易を行いました。
またプラッシーの戦いなどにおいてフランスを破り、パリ条約においてイギリスのインドにおける優位を決定づけました。
そしてインド内部の勢力に対しては、マイソール戦争、マラーター戦争、シク戦争などに勝利し、間接統治と直接統治を合わせた分割統治を行いました。
植民地統治下のインド社会では、ザミンダーリー制やライヤットワーリー制などの徴税制が用いられました。
これらはインド社会に深刻な影響を与えました。
その結果、シパーヒーの大反乱が発生しましたが、鎮圧され1858年にムガル帝国は名実ともに滅亡しました。
東インド会社の独占への批判が強まり、商業活動そのものの停止を定められ、1858年に解散しました。
ヴィクトリア女王 がインド皇帝に即位しインド帝国が成立するなど、イギリスはインドの直接統治に乗り出しました。
インド帝国成立後、インドの人々の生活は苦しくイギリスへの不満が高まっていました。
イギリスは不満を和らげるためインド国民会議を結成しました。
1906年のカルカッタ大会はスワデーシー・スワラージー・民族教育などの4綱領を決議しイギリスの支配に対抗する姿勢を示しました。
一方イスラーム教徒は、親英的な全インド=ムスリム連盟を結成しました。
第1次世界大戦後、1919年のインド統治法でインドの自治を形式的に認めましたが、一方で強圧的なローラット法も制定しました。
これらの圧政に対してガンディーは非暴力・不服従を掲げて民族運動を指導しました。
また、国民会議派のネルーらがプールナ=スワラージーを決議し、ガンディーは塩の行進を行い植民地支配に抵抗しました。
この中で成立した1935年のインド統治法では、一部独立が認められました。
独立は戦後となりますが、それも一筋縄ではいきませんでした。