イラン革命
簡単なまとめ
1979年、ホメイニがパフレヴィー朝を打倒し、イラン・イスラム共和国を樹立した革命。「イラン=イスラーム革命」ともいう。
などを引き起こし、国際社会に甚大な影響を与えた。
革命の経緯
革命前
革命以前、イランはパフレヴィー朝で、国王パフレヴィー2世が治めていた。
パフレヴィー朝は親欧米政権で、欧米から投資を呼び込んで強引に工業化・西欧化を進める白色革命を行っていた。
しかし、白色革命は富裕層がさらに豊かになっただけで人民の生活は改善せず、王政への不満が高まった。
(パフレヴィー2世)
革命の発生
ウラマーであるホメイニは、イスラーム法に基づいた国づくりを掲げ、欧米と癒着し腐敗した王政を打倒しようと主張した。
ホメイニは民衆の圧倒的支持を受け、イランでは反王政デモが拡大。革命運動の高まりに耐えかねて国王パフレヴィー2世は国外に逃亡、パフレヴィー朝は滅亡した。
(ホメイニ)
革命後
革命後、国のあり方は大きく変わった。
- 王政から共和制に移行
- イスラーム法に基づいた国家づくり
を掲げ、「イラン・イスラム共和国」を樹立した。
宗教指導者(イスラーム法学者)が大統領より強い権力を持ち、宗教指導者が国家の最高権力者である政教一致体制となっている。
法体系もイスラーム法(シャリーア)に基づいて整備され、イスラム教の教えにしたがって国が統治されるようになった。
イランの政治体制を超ざっくり図にすると以下のようになる。
(2025年8月現在。ハメネイ師、ペゼシュキアン大統領)
世界への影響
などがある。
米国との対立
パフレヴィー朝は親米政権であったため、アメリカは当然、親米政権を打倒した革命政府のことが嫌いである。
イスラム革命自体、反欧米的な要素もあったので、余計に米国との関係は悪くなった。
第二次石油危機
革命による政治的混乱、石油メジャーの排除などにより生産量が激減したため、イランは石油の輸出を停止した。
これにより原油の流通量が減少したことで価格が高騰、第二次石油危機が発生した。
イラン・イラク戦争の勃発
イラン革命の成功により、革命がイラクに波及することを恐れたイラクのフセイン政権がイランに侵攻。イラン・イラク戦争がはじまった。
詳しくはこちらを参照。
ソ連のアフガン侵攻
イラン革命の成功によりイスラム復興運動が高まり、隣のアフガニスタンでもイスラム復興運動が盛り上がった。
これによってアフガニスタンの共産主義政権が打倒されることを恐れたソ連は、アフガニスタンに軍事侵攻を行った。
アフガン侵攻でソ連は経済的に疲弊し、ソ連崩壊の遠因ともなった。
イスラム復興運動の興隆
イランでのイスラム革命の成功を見て、各国でイスラム復興運動が盛り上がるきっかけとなった。
イランが各国のシーア派組織を支援したことも後押しした。
補足~イラン革命の歴史的価値
イラン革命の何がそんなにすごいのかというと、イスラム復興運動(特にシーア派)が盛り上がるきっかけとなったことである。
それまで、イスラム世界は西欧列強による侵略を受け、「欧米より遅れた地域」であるという劣等感が蔓延していた。この中で生まれたのが、イスラム世界としてのアイデンティティを取り戻し、イスラム世界の復興を目指すイスラム復興運動(イスラム原理主義)である。
イラン革命の成功は、イスラム復興運動が現実に成功したことを意味しており、イスラム復興運動はいっそう自信を深めた。イスラム教の政治化が進み、地域政治のイスラム化が進んだ。
また、イランはシーア派の国ということで、イランは国外のシーア派勢力を支援するようになった。レバノンのヒズボラ、ガザ地区のハマス、イエメンのフーシ派などである。
スンニ派諸国はシーア派の台頭に対して危機感を持ち、スンニ派とシーア派の対立が激化する要因ともなった。