皆さん、こんにちは。
このシリーズでは、日本の歴史において多大なる貢献を果たした日本の偉人について紹介していきます。
1回目となる今回は、初代内閣総理大臣として知られる伊藤博文(敬称略)について紹介します。
日本の偉人の功績や意外な一面もあり勉強になる内容となっているのでぜひ最後まで読んでみてください。
伊藤博文の人生
まず伊藤博文について簡単に説明します。伊藤博文は1841年10月16日、長州藩(現在の山口県)で百姓の子として生まれました。
その後、父が足軽の養子となり、伊藤博文も武士の身分となります。1857年、16歳のときに伊藤博文は松下村塾に入門し、師である吉田松陰に深く感銘を受けました。
塾では高杉晋作や木戸孝允(桂小五郎)らと親しく交流し、後の明治維新に繋がる思想や行動力を培っていきました。
思想転換と欧米視察
1863年、伊藤博文は尊皇攘夷運動に参加し、当初は外国勢力を排除する立場を取っていました。
しかし後に密かにイギリスへ渡航し、欧米諸国の強大な軍事力や産業力を目の当たりにしたことで、開国・近代化の必要性を強く認識するようになります。
1871年には、岩倉具視、大久保利通などと共に岩倉使節団の一員として欧米諸国を訪問しました。
その後、約1年半にわたり欧米諸国の政治、経済、教育、社会制度などを幅広く学びました。帰国後はその知見を活かし、日本の近代化を強力に牽引していきました。
その後、伊藤博文は西洋の制度を取り入れた近代国家建設に尽力し、明治維新の中心的人物として重要な役割を果たしていきます。
憲法制定と民主主義の実現へ
伊藤博文は日本の近代化には民主的な憲法と議会が必要だと考え、大日本帝国憲法および内閣制度の制定に尽力しました。
幅広い欧米諸国の憲法を参考にしましたがその中でもドイツのプロイセン憲法は君主の力が強く保障されていました。
そのためドイツのプロイセン憲法は天皇中心の国づくりを目指す日本にとって良いお手本だと考え、特にドイツのプロイセン憲法を参考に大日本帝国憲法の制定を主導しました。
その後、1885年には初代内閣総理大臣に就任。現在まで続く内閣制度の基礎を築きました。
また、帝国議会の開設にも貢献し、東アジア初の立憲君主制国家としての基盤を整えました。
その後の活躍と韓国統治
その後も伊藤博文は日清戦争や三国干渉などの対応にあたり、韓国統監として韓国を統治する立場になりました。
ただし、伊藤博文自身は併合には慎重で、形式的には韓国の独立を維持しつつ、保護国として日本の影響下に置く方針をとっていました。
しかし、伊藤博文は1909年に満州のハルビン駅で韓国の独立運動家でテロリストの安重根に暗殺されました。
安重根は伊藤博文が韓国統治の悪者だと決めつけて暗殺を実行しましたが、皮肉にも伊藤博文の死後、日本は韓国を完全併合し、韓国の独立は遠のく結果となりました。
初代兵庫県知事としての活躍
また意外な事実として、伊藤博文は兵庫県の初代県令(現在の知事に相当)も務めていました。
これは1871年(明治4年)のことで、当時の神戸港開港に伴い、外国人とのトラブルや混乱を防ぐため、海外経験が豊富な伊藤博文が任命されたとされています。
任期はわずか数か月でしたが、現在の神戸の国際的な港町としての基盤を整えたとされています。
分かれる伊藤博文の評価
伊藤博文は、日本の近代化と政治体制の基礎を築いたこと、憲法制定や議会民主主義の導入、行政機構の整備など多岐にわたり、近代日本の国家建設の功労者として高く評価されています。
一方で、天皇を頂点とする強固な中央集権体制を進めた点は、それが後の軍国主義につながったという批判もあり評価が分かれる政治家の1人となっています。
伊藤博文の意外な一面!?
ここまで伊藤博文の活動や功績などを紹介して皆さん「伊藤博文って真面目な政治家だったんだな」と思われたのではないでしょうか?
しかし伊藤博文にはびっくりするような一面もあったとされています。
その代表的なエピソードが女性とお酒に関する話です。伊藤博文は大の女性好きとしても知られており、さまざまな女性のいる店に通っては遊びに夢中になっていたそうです。
中には、なんと40度の高熱があるにもかかわらず、そのお店に足を運んだという逸話まで残されています。
さらに、彼は自分の給与のほとんどを女性遊びに使い果たし、とうとう自宅の維持も困難になったと言われています。
その姿にさすがに政府も問題視し、「一国の総理が家を持っていないのはまずい」として、現在の首相官邸の前身が作られたという逸話もあるほどです。
もちろん、こうした行動には明治天皇も何度も注意をしたそうですが、伊藤博文は「みんな隠れてやってるけど、私は堂々とやっているだけです」と開き直ったという逸話もあります。
また、彼はお酒も大好きで、非公式な会議では酒を飲みながら会議をすることも少なくなかったそうです。
このように、伊藤博文は真面目に見える政治家でありながらも、1人の人間として人間らしい一面も持っていたのです。※これらの逸話には諸説ありますが、伊藤博文の人間らしい側面を語るエピソードとして語り継がれています。
(現在の首相官邸)
(首相官邸前にて著者が撮影)
まとめ
このように伊藤博文は、大日本帝国憲法の制定や初代内閣総理大臣としての活躍を通じて、日本の近代化と民主主義を牽引してきました。
伊藤博文はテロリストの攻撃により志半ばで亡くなりましたが、その功績は今なお日本の歴史に深く刻まれ、多くの人々に語り継がれています。
また歴史上の偉人の中には、今の私たちの暮らしや社会の仕組みに大きな影響を与えた人物が数多く存在します。
皆さんも、ぜひ自分の興味のある人物について調べてみてはいかがでしょうか?意外な発見や学びがあるはずですよ!
次回は作家であり元東京都知事の石原慎太郎氏について紹介します。
最後までありがとうございました。




