フランス革命
概要
フランス革命時、フランスの政治制度が
絶対王政→立憲君主政→第一共和政→第一帝政
と目まぐるしく変化していきます。
時代
18世紀後半
場所
詳細
背景
啓蒙思想が社会に広まり、ルソーの社会契約説やアメリカ独立宣言の革命権の思想などが人々を革命へ駆り立てました。
また、アンシャン=レジームと呼ばれる、聖職者を第一身分、貴族を第二身分、平民を第三身分とする身分制度への不満や、シェイエスが『第三身分とは何か』で第三身分の権利を主張したことに影響されています。
絶対王政から立憲君主政へ
フランスは当時、イギリスとの戦争などの出費により財政難に陥っていました。
そのためフランスのルイ16世はテュルゴーやネッケルらを起用し、財政改革を試みましたが、特権身分の反対により三部会が開かれることになりました。
そこで特権身分と対立した第三身分の議員は、自分たちが真に国民を代表するとして国民議会を宣言し、憲法制定まで解散しないという球戯場の誓い(テニスコートの誓い)をたてました。
そしてパリの民衆がバスティーユ牢獄を襲撃したことで革命化し、国民議会は封建的特権の廃止を決議し、その後ラ=ファイエットの起草した人権宣言を採択しました。
また、凶作などにより生活苦に苦しんでいたパリの女性がヴェルサイユ行進を行い、王家をパリに移らせました。
1791年、一院制の立憲君主政を定め、憲法を発布し国民議会は解散となります。
しかしこの時、国王は国外へ逃亡を図るヴァレンヌ逃亡事件が起きたことで、国民の信頼は失っていました。
立憲君主政から第一共和政へ
1791年憲法に基づき、立法議会が成立すると、現状維持を臨むフイヤン派と共和政を主張するジロンド派が対立しましたが、ジロンド派が実権を握り、王を支援するオーストリアに宣戦しました。
オーストリアとの戦いでフランスが劣勢になると、義勇軍がパリに集まり、王権を停止させる8月10日事件が起きました。
そして国内では男性普通選挙による国民公会が成立し、第一共和政が樹立されました。
第一共和政から第一帝政へ
国民公会では急進的なジャコバン派が力を増し、ルイ16世が処刑されました(=革命)。
一方イギリスでは、フランス革命の国内への波及を恐れたピットが第1回対仏大同盟を作りました。
フランス国内では、ロベスピエールらジャコバン派が公安委員会を中心に恐怖政治を行いました。
しかし独裁への不満からテルミドール9日のクーデタでロベスピエールは処刑されました。
その後、総裁政府が樹立されましたが国内の混乱は収まりませんでした。
そこで ナポレオン=ボナパルトが登場し、ブリュメール18日のクーデタで統領政府をたて、第一統領として事実的な独裁を開始し、1804年、皇帝となります(第一帝政)。
関連単語
三部会 / 第一共和政 / バスティーユ牢獄襲撃 / ロベスピエール