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ウィーン体制

概要

フランス革命やナポレオン体制後の国際秩序を再建するために開かれた会議、ウィーン会議で決められた秩序(=ウィーン体制)についてです。

まとめ→近代ヨーロッパ

時代

19世紀初頭

場所

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詳細

成立

フランス革命やナポレオンによる戦争の戦後処理のため、オーストリア外相のメッテルニヒ主導でウィーン会議が開かれました。

会議ではフランスのタレーランが主張した、基本的に戦争前の領土に戻す正統主義が採用され、フランスやスペインでブルボン王家が復活しました。

またドイツには、オーストリア・プロイセンなどの35の君主国と4自由市で構成されるドイツ連邦が組織されました。

会議では18世紀末のフランス革命などにより広まった自由主義やナショナリズムを抑えられ保守主義が優位となり、ウィーン体制と呼ばれる国際秩序が築かれました。

そして莫大な経済力と海軍力をもつイギリスの影響下でパクス=ブリタニカと呼ばれる比較的平和な状態が続きました。

また、ロシアのアレクサンドル1世は神聖同盟と四国同盟を結び、ヨーロッパでの発言力を高めました。

動揺

ウィーン体制成立後も、ドイツではブルシェンシャフトによる改革の要求、スペインの立憲革命、イタリアのカルボナリの蜂起、ロシアのデカブリストの乱などの自由主義的改革を求める働きがおさまりませんでした。

またギリシアの独立や、ラテンアメリカでの独立運動が相次ぎました。

メッテルニヒはこれらの独立運動に反対はしましたが、干渉はできず、崩壊へと繋がっていきます。

補足

ナポレオンをエルバ島に流したのちに、初めての国際会議として開催されたウィーン会議ですが、各国の利害がぶつかり合いなかなか進展しませんでした。

そこで、親睦を謳った宴会や舞踏会が盛り上がります。

この様子は、「会議は踊る、されど進まず」と風刺されます。

そうしているうちに、ナポレオンがパリに戻ってきてしまったのですね。

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