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ウィーン体制の崩壊

概要

ウィーン体制に反対する人々が各地で抗議運動を行い、革命を起こしたお話です。

それにともなって、民族運動も高揚しました。

フランスの七月革命、二月革命に続くように各地で蜂起が起こります。

まとめ→近代ヨーロッパ

時代

1830年 七月革命

1848年 二月革命、各地での反乱によりウィーン体制崩壊

場所A647186C1EF34DC8A7EA26D8AA72D600.png

詳細

七月革命

ウィーン体制下のフランスでは、ルイ18世ののちシャルル10世による貴族らを重視する反動政治が行われていました。

それに対する国民の不満をそらすためアルジェリア出兵が行われましたが、あまり効果はありませんでした。

そして議会を解散したことに対して民衆は抗議し、パリで七月革命が起こり、ルイ=フィリップを王とする七月王政が成立しました。

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二月革命

七月王政下のフランスでは制限選挙による政治が行われており、民衆が政府に対して選挙権拡大を求める動きが活発でした。

政府がこれを抑えようとすると、パリで二月革命が起こりルイ=フリップは逃亡、共和政の臨時政府が樹立されます(第二共和制)。

しかし、クーデターによりすぐに第二帝政が始まります。

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影響

七月革命の影響は各地に広がりますが、成功したのはベルギーがオランダから独立したのみでした。

二月革命はヨーロッパ各地で1848年革命と総称されるこれに影響された革命・民族運動を引き起こします。

まずプロイセン・オーストリアに波及しました。

ウィーンでは蜂起が起こり、メッテルニヒが失脚しました。

ベルリンでも民衆が蜂起をおこし、自由主義的改革が成立する三月革命が起こりました。

さらにベーメン・ハンガリー・イタリアでは民族運動が高揚し、「諸国民の春」 と呼ばれる状況が生まれ、ウィーン体制は崩壊しました。

しかしハンガリーの民族運動はロシアに鎮圧され、ロシアは「ヨーロッパの憲兵」として力をつけます。

ドイツ連邦では統一国家達成などのため、フランクフルト国民議会が結集され、統一へと進んでいきます。

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