はじめに
前回に引き続き冷戦について詳しく解説していきます。
世界各国の動きをしっかりと理解するようにしましょう!
雪どけ
1955年ジュネーブ四巨頭会議
この会議に参加したのは、当時の世界で最も大きな影響力を持つ四つの国、すなわちアメリカ合衆国、ソビエト連邦、イギリス、フランスでした。これらの国々は、国際情勢の安定と安全保障に関する問題について議論しました。
ジュネーブ四巨頭会議の主な議題は、ドイツの再武装やヨーロッパの安全保障、東西ドイツ間の関係、オーストリアの中立化などでした。会議では、冷戦時代の緊張を緩和するための枠組みや措置が検討されました。
1956年スターリン批判
1956年の共産党第20回大会で、ニキータ・フルシチョフがスターリンの独裁体制を非難する「秘密報告」を行いました。この報告では、スターリン時代の弾圧や粛清、政治的な誤り、そして彼の個人的な非難が行われました。
これにより、スターリンの人物崇拝が一部解体され、スターリン批判の動きが始まりました。
1959年フルシチョフ訪米
フルシチョフの訪米は、当時のアメリカ合衆国大統領であるドワイト・D・アイゼンハワーとの直接の会談を含みました。この会談では、両国の指導者は軍拡競争の緩和や核戦争の防止などの重要な問題について議論しました。
この訪問は、当時の世界情勢における重要な転換点となりました。両国の指導者の直接的な対話は、冷戦の緊張を和らげ、将来の対話と協力の基盤を築く一助となりました。
キューバ危機
1959年キューバ革命
革命の前段階として、1953年にフィデル・カストロらが率いる革命家たちは、バティスタ政権に対する武装蜂起を試みましたが失敗に終わりました。その後、カストロはメキシコに亡命し、メキシコで革命の計画を練り直しました。
1959年1月1日、バティスタ政権は崩壊し、フィデル・カストロはハバナに入城しました。これによりキューバ革命は成功し、フィデル・カストロはキューバの指導者となりました。
キューバ革命の影響は大きく、アメリカ合衆国との関係を変える要因となりました。1960年にはキューバが社会主義政権を宣言し、アメリカとの対立が深まり、1961年には米ソ両国間でカリブ海危機が勃発するなど、国際政治に大きな影響を与えました。
1962年キューバ危機
キューバはソビエト連邦との関係を強化した結果、ソビエト連邦はキューバに核ミサイルを配備することを計画し、アメリカ合衆国の間近に核兵器を持ち込むことになりました。
アメリカの偵察機がキューバ上空でソビエト連邦のミサイル基地を発見し、アメリカ政府はこれを公表しました。この情報が世界に広まると、アメリカとソビエト連邦の間で軍事的な緊張が高まり、核戦争の危機が現実のものとなりました。
この危機の最中、アメリカの大統領ジョン・F・ケネディとソビエト連邦の指導者ニキータ・フルシチョフの間で緊張緩和のための交渉が行われました。ケネディ大統領は、ソビエト連邦に対してキューバからのミサイルの撤去を要求し、アメリカは対抗措置としてトルコからのジュピター中距離弾道ミサイルの撤去を約束しました。
ベトナム戦争
1945年インドシナ戦争
フランスの植民地支配からの独立を求めるインドシナ半島の国々と、フランスの間で行われた武力衝突。
ディエンビエンフーの戦いでフランスがベトナムに敗れる。
1954年ジュネーブ休戦協定
第一次インドシナ戦争の終結に関する国際的な合意。この協定は、フランスとベトミン(ベトナム独立同盟会)の間で交渉され、ベトナムの分割とフランスのインドシナからの撤退を定めました。
1965年ベトナム戦争
南ベトナム政府とその支援者であるアメリカ合衆国、およびその他の反共産主義国々と、北ベトナムとその支援者であるソビエト連邦、中国、北朝鮮、およびその他の共産主義国々との間で行われました。
南ベトナム政府は反共主義を掲げ、西側諸国、特にアメリカ合衆国の支援を受けていました。一方、北ベトナム政府は共産主義を掲げ、ソビエト連邦や中国から支援を受けていました。
1973年にはパリ和平協定が締結されました。これにより、アメリカ合衆国は、南ベトナムからの全ての軍隊と軍事顧問団の撤退を約束しました。戦争は1975年のサイゴン陥落によって終結し、ベトナム全土が北ベトナムの支配下に置かれました。
この戦争は、アメリカ合衆国の外交政策において重大な失敗の一つと見なされ、多くの国で大きな議論を引き起こしました。
イラン=イスラーム革命
1979年イラン=イスラーム革命
この革命は、1979年1月16日に始まったシャーに対する大規模なデモと抗議行動から始まりました。国内のイスラム主義勢力や左派勢力、学生、労働者など多様な層が参加しました。
デモは国内の不満や抑圧に反対する広範な運動へと拡大し、1979年2月11日にパフラヴィー朝のシャー・モハンマド・レザ・パフラヴィーが国外へ逃亡し、革命勢力が政権を掌握しました。
その後、アヤトラー・ホメイニー師を指導者とするイスラム共和国が樹立され、イランの政治・社会システムがイスラム主義の原理に基づくものへと転換されました。ホメイニーは最高指導者として権力を握り、イランはシーア派のイスラム法(シャリア)に基づく政治体制を採用しました。
1980年イラン=イラク戦争
イラクのサッダーム・フセイン政権がイランの革命的イスラム政権を脅威と見なし、イランの混乱に乗じて侵攻を開始したとされています。
冷戦の終わり
1985年ゴルバチョフによるペレストロイカ
目的は、ソ連の経済を効率的に再構築し、社会主義制度の活性化と革新を促進することでした。この改革は、従来の中央集権的で指令型の計画経済から、より市場経済に基づく、より柔軟で効率的な経済システムへの移行を意図していました。
しかし、ペレストロイカは期待されたような結果を生み出さず、ソ連の崩壊の遠因となりました。経済の混乱や政治的な不安定さが増大し、1991年にソ連は崩壊し、独立国家が誕生しました。
1989年ベルリンの壁崩壊
ベルリンの壁は、東ドイツが西側との接触を阻止するために1961年に建設されました。しかし、東ドイツの経済的、政治的な問題や西側の自由主義の影響が東ドイツ社会に浸透し、抗議活動が拡大しました。
1989年秋、東ドイツの政府は旅行制限を緩和し、ベルリンの壁を開放すると発表しました。ベルリンの壁崩壊は、冷戦の終結を象徴し、東ヨーロッパ諸国の民主化や、東西ヨーロッパの統合の流れを加速させる出来事でした。
1989年マルタ会談
ソビエト連邦の最後の指導者であるミハイル・ゴルバチョフとアメリカ合衆国の大統領であるジョージ・H・W・ブッシュの間で行われた歴史的な会談です。
この会談は、冷戦の終結と東西関係の新たな時代の幕開けを象徴するものでした。ゴルバチョフとブッシュは、ヨーロッパの安全保障、核兵器削減、および冷戦後の世界の安定化などについて議論しました。



