冷戦の流れ①終戦~雪どけ
はじめに
冷戦って聞いてどんなことを思い浮かべますか?
終戦後社会主義と民主主義に分かれて対立するも、直接戦火を交えなかった戦争、それが冷戦です。
各国が結んだの同盟の動きや雪どけやデタントなどの状況の変化、数々の出来事が組み合わさって複雑化している冷戦を、数回に分けて詳しく解説していこうと思います。
終戦後の世界の動き
1946年チャーチル(英)元首相による鉄のカーテン演説
第二次世界大戦の終結後、欧州では東西の陣営間で緊張が高まっていました。ソ連は東欧諸国に対して影響力を行使し、共産主義政権を樹立していました。
これに対し、アメリカやイギリスなどの西側諸国は共産主義の拡大を阻止しようとしていました。この状況下で、ウィンストン・チャーチルはアメリカ合衆国における西側諸国との協力を強化するための演説を行うこととなりました。
演説内容:
ウィンストン・チャーチルは、演説で東西の分断を象徴する「鉄のカーテン」という表現を用いました。
彼は、ヨーロッパが「鉄のカーテン」によって分割され、東側と西側という二つの大きな陣営に分かれることで世界が分裂していくと警告しました。
また、彼はアメリカとイギリスを中心とした西側諸国が団結して共産主義の拡大を阻止する必要性を強調しました。
演説の中でチャーチルは、以下のような有名な言葉を述べています。
- 「鉄のカーテンが降りた。」
- 「自由世界と共産主義世界との間には、不協和音と戦いの二つの異なる世界が形成されつつある。」
(鉄のカーテン…バルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステまで)
1947年3月トルーマン(米)大統領がトルーマン・ドクトリンを発表
トルーマンは、ギリシャとトルコが内政的な混乱や共産主義の脅威に直面していることを指摘し、これらの国々に対して経済的および軍事的支援を提供する必要性を訴えました。彼はこの支援がアメリカの国家安全保障に不可欠であると主張しました。
また、トルーマン・ドクトリンは、ジョージ・ケナンが提唱した封じ込め政策を明確に裏付けるものでした。この政策は、共産主義の拡大を阻止するために、アメリカが外国に対して積極的な支援を行うというものでした。
1947年6月マーシャル・プランが発表される
マーシャルプランは、ヨーロッパ諸国に経済的援助を提供することを主な目的としていました。アメリカはヨーロッパに対し、資金、食料、原材料、機械などの援助を提供しました。これにより、ヨーロッパ諸国は復興を進め、経済的安定を回復することができました。
そして、マーシャルプランは単なる経済援助に留まらず、ヨーロッパ諸国の政治的安定と民主主義の強化も目指していました。アメリカは支援の条件として、受け取る国が民主主義を実践し、市場経済を構築することを求めました。
1947年10月マーシャルプランに対抗してコミンフォルムが設立される
コミンフォルムは、共産主義国家間の統一と連携を図るための組織です。ソビエト連邦を中心に、東欧諸国の共産主義政権が参加し、共通の政治的方針や戦略を協議しました。
1948年2月チェコスロヴァキア政変
1947年から1948年にかけて、チェコスロバキアでは共産主義者と非共産主義者の間で政治的な対立が激化しました。
1948年2月、共産主義者は非共産主義者の閣僚を内務省の警察によって逮捕し、政府内での影響力を強化しました。
1948年2月25日から27日にかけて、共産主義者は新しい政府を形成し、クレメント・ゴットワルトを首相に任命しました。これにより、チェコスロバキアは共産主義体制下に入りました。
1948年ベルリン封鎖
第二次世界大戦後、ドイツはアメリカ、イギリス、フランス、ソ連によって4つの占領区に分割されました。ベルリンも同様に、4つの占領区に分かれていました。
しかし、1948年に西側連合国は、ドイツの再建を促進するために新しい通貨であるドイツマルクを導入しました。これに対し、ソ連はこの行動をドイツの分断を目指すものと見なし、猛反発しました。
そして、ソ連はベルリンへの陸路補給を遮断するためにベルリン封鎖を開始しました。ソ連は、ベルリンに向かうすべての陸路と運河を封鎖し、西側連合国による物資や人員の輸送を停止しました。
西側連合国はベルリンの封鎖に対抗するために、大規模な空輸作戦を開始しました。アメリカ空軍とイギリス空軍が、毎日何百もの航空機を使用して、ベルリンへの物資を輸送しました。この作戦は、ベルリン空輸作戦として知られています。
結果、ベルリン封鎖はソ連の失敗に終わりました。封鎖の間、西側連合国の空輸作戦によってベルリンの住民は十分な食料や必需品を受け取り、ソ連の試みは無効化されました。1949年5月12日、ソ連はベルリン封鎖を解除しました。
1948年8月朝鮮の分断
第二次世界大戦終結後、ソビエト連邦は北朝鮮に進軍し、アメリカは南朝鮮に進駐しました。
1948年、南北朝鮮はそれぞれ独立を宣言し、南は大韓民国(韓国)、北は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)となりました。東西冷戦の進展により、朝鮮半島は南北に分断され、対立が深まっていきました。
1949年NATO(北大西洋条約機構)の結成
西側諸国は、ソ連の影響力の拡大と共産主義の勢力拡大に対抗する必要性を認識し、NATOを結成しました。
NATOは、加盟国間の集団防衛の原則を確立し、攻撃された加盟国に対して共同して行動することを誓約しました。
1949年COMECON(経済相互援助会議)の結成
ソ連が東ヨーロッパ諸国を経済的に統合し、共産主義国家間での相互支援と経済発展を促進するために結成されました。
ソ連を中心として、ポーランド、チェコスロバキア、東ドイツ、ハンガリー、ブルガリア、ルーマニア、アルバニア、キューバなどの共産主義国家が加盟していました。
1949年中華人民共和国の成立
中華人民共和国の建国は、1949年10月1日に宣言されました。この日、中国共産党の指導者である毛沢東は北京の天安門広場で中華人民共和国の成立を宣言し、国旗を掲げました。
これにより、国共内戦の結果、中国大陸の大部分が共産党の支配下に統一され、中華民国政府は台湾に撤退しました。これにより、中華人民共和国は中国本土の主権を持つ国家として誕生しました。
1950年朝鮮戦争
1950年6月25日、北朝鮮が韓国南部に侵攻し、韓国の首都ソウルを占領し始めました。
国際連合安全保障理事会は、北朝鮮の侵攻を非難し、国連軍を結成して韓国を支援しました。国連軍は、アメリカを中心とした多国籍軍で構成されていましたが、中国人民志願軍も北朝鮮を支援し、戦争に参加しました。
激しい戦闘が続いた後、1953年に停戦協定が調印され、朝鮮半島の北緯38度線を境界とする休戦ラインが確立されました。しかし、正式な講和条約は結ばれておらず、朝鮮半島は現在も事実上分断されたままです。
1955年ワルシャワ条約機構の結成
ワルシャワ条約機構の加盟国には、ソビエト連邦をはじめとする東ヨーロッパ諸国が含まれていました。主な加盟国には、ポーランド、東ドイツ、チェコスロバキア、ハンガリー、ブルガリア、ルーマニア、アルバニアなどがあります。
北大西洋条約機構(NATO)と同様に、集団防衛の原則を採用しています。つまり、加盟国が攻撃されれば、他の加盟国も共同して防衛することを誓約しています。
1956年スターリン批判
1956年の共産党第20回大会で、ニキータ・フルシチョフがスターリンの独裁体制を非難する「秘密報告」を行いました。この報告では、スターリン時代の弾圧や粛清、政治的な誤り、そして彼の個人的な非難が行われました。これにより、スターリンの人物崇拝が一部解体され、スターリン批判の動きが始まりました。
スターリン批判の影響
ハンガリー動乱:
1956年10月23日、学生や労働者を中心としたデモがブタペストで始まりました。デモ隊は、民主主義とソ連からの撤退を求めるスローガンを掲げ、ブタペスト市街で暴動が勃発しました。
ソ連指導部は、ハンガリーでの情勢が不安定になることを恐れ、1956年11月4日にソ連軍をハンガリーに侵攻させました。
ポズナニ事件:
1956年6月28日から29日にかけて、ポズナニで大規模な抗議デモが発生しました。この事件は、ポーランドの労働者階級が共産主義政権に対する不満を爆発させ、政府に改革を求めたものでした。
ポズナニ事件は、共産主義政権による抑圧と反体制運動の高まりを象徴し、冷戦期におけるポーランドの政治的な転換点の1つとなりました。
次回は「冷戦の流れ②雪どけ~マルタ会談」として、キューバ危機、ベトナム戦争、マルタ会談などについて解説します。
読んでいただきありがとうございました。