列強が帝国主義政策のもと、アフリカを次々と植民地化していく様子です。
イギリスとフランスの縦断、横断政策を中心に各国の動きに注目しましょう。
19世紀後半〜20世紀前半
1898年 ファショダ事件
1904年 英仏協商

ドイツのビスマルクはベルリン会議を開き、アフリカの植民地化の原則を定めました。
アフリカ南部ではイギリスのセシル=ローズの指導でケープ植民地から周辺に侵攻する政策がとられました。
また、ブール人に対して南アフリカ戦争を起こし、トランスヴァール・オレンジ両国を併合しました。
さらに、ケープタウンとカイロ、カルカッタを結ぶ3C政策を進めました。
大陸でのカイロ、カルカッタ接続のために領土を広げていく縦断政策を取ります。

ドイツはバグダード、ベルリン、ビザンティウムを結ぶ3B政策を進めました。
フランスはチュニジアを保護国化し、アフリカ横断政策をとりました。
その結果、イギリスのアフリカ縦断政策と衝突し、1898年にファショダ事件が起こりましたが、フランスが譲歩して解決しました。
その後両国は接近し、英仏協商を結びます。
ドイツがフランスのモロッコ支配に対しモロッコ事件を起こしますが失敗し、モロッコはフランスの保護国になりました。
このようにして、20世紀初頭にはアフリカ全土はエチオピア帝国とリベリア共和国を除いて列強の支配下に置かれました。
1912年にはアフリカ民族会議が創設され、人種差別撤廃を目指す運動が始まりました。
またロンドンで開かれたパン=アフリカ会議では、植民地主義への抗議と人種差別への反対が主張されました。
これらの運動は第2次世界大戦後にアフリカ独立を目指す運動へと発展しました。
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