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露土戦争


概要

ロシアとオスマン帝国の戦争(ロシア=トルコ戦争)。

ロシアの南下政策のために度々戦われた。

特に重要なのはエカチェリーナ2世の時代の18世紀後半のものと、1887,88年のもので、狭義で後者を指す。

流れ→南下政策、 ビスマルク体制

まとめ→近代ヨーロッパロシア

時代

(狭義) 1878, 79年

場所

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詳細

18世紀後半

エカチェリーナ2世の下で戦われた露土戦争ではロシアは勝利し、1774年、キュチュク=カイナルジ条約ダーダネルス、ボスフォラス海峡(両海峡)の航行権などを獲得しました。

第2回も戦われ、オーストリアはロシアを支持した一方、イギリスとスウェーデンがオスマン帝国を支持します。

この2国が手を引いたことで講和が成立、ロシアがクリミア半島を獲得しました。

19世紀

1828,29年のギリシア独立戦争や53〜56年のクリミア戦争も、ロシアとオスマン帝国の対立が軸のため露土戦争と呼ばれます。

一般に呼ばれる、そして最後となる露土戦争が1878, 79年の露土戦争です。

それまでと同様、オスマン帝国内のキリスト教徒の保護を口実に、パン=スラヴ主義を標榜しアレクサンドル2世が開戦します。

イスタンブールに迫り、サン=ステファノ条約セルビア・モンテネグロ・ルーマニアのオスマン帝国からの独立やブルガリアの実質独立、ロシアの黒海沿岸の領地の獲得を定めます。

しかしこれにヨーロッパ諸国が反対し、ビスマルクの主催によりベルリン会議が開催されます。

これにより以下のような変更がなされました。

  • ブルガリアは領土を3分の1に縮小
  • ロシアの獲得した領地は縮小
  • オーストリアのオスマン帝国領のボスニア・ヘルツェゴヴィナの統治権獲得
  • イギリスのオスマン帝国からのキプロス島の統治権獲得

ロシア・オスマン帝国両国の利権を減じた他、ベルリン会議にはフランス孤立というビスマルク体制整備の意図も見られました。 987F40318ED44101866C62FF91531026.png

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