唐
概要
隋に続いて興った王朝、唐のお話です。
隋代までの制度を整えた、長命な王朝でした。
まとめ→中国王朝
時代
618年〜907年
場所
詳細
政治
隋末の反乱の中で挙兵した一人、李淵(りえん)が隋を倒し皇帝となり(高祖)、長安を都とする唐をたてます。
2代の太宗(李世民)、3代高宗は対外政策を盛んに行い、征服地には都護府を置いて管理しました。
7世紀末、則天武后が帝位につき一度国名を周と改めますが、玄宗により戻されます。
政治の引き締めなどの功績を残した玄宗ですが、晩年には寵愛していた楊貴妃の一族が力を持ち、それに対する反発から反乱が起こります。(安史の乱)
以降統制力が弱まった唐は、9世紀後半の黄巣の乱を発端に広まった反乱もあり、ついに907年、朱全忠に滅ぼされます。
制度
隋の制度を受け継ぎ、律令格式にまとめ、それに基づいた政治を行いました。(律令国家)
中央には三省六部、御史台(ぎょしだい)を中心とする官制を、地方には州県制をしきました。
税制は土地を支給し(均田)、租庸調を徴収する形を取っていましたが、高級官僚は、農民に耕作させる大土地、荘園を所有することもありました。
この均田制、租庸調制とともに、徴兵制度である府兵制が唐の対外政策を支えます。
8世紀に入る頃には、貧富の差が開き没落して逃亡する農民も増え、均田制、租庸調制、府兵制が成り立たなくなってゆきます。
府兵制に代わって採用されたものが傭兵を用いる募兵制で、指揮官は節度使と呼ばれます。
安史の乱ののち中央の統制が弱まると、節度使が地方で権力を握り、藩鎮となりました。
唐を滅ぼした朱全忠も、節度使でした。
租庸調制に代わって採用されたものが、秋夏の2回徴税する両税法です。
文化
交流も増え、多様な文化が花開きます。 景教や祆教(ゾロアスター教)、マニ教なども普及し、ともに流行したイラン文化の影響で唐三彩なども作られましたが、特に栄えたのは保護を受けた仏教でした。
玄奘や義浄はインドにわたり経典を持ち帰ったことでその後に大きな影響を与えました。
科挙制度の整備に伴い訓古学(訓詁学)も重視されるようになり、孔穎達(くようだつ)らは「五経正義」を作ります。
試作も重んじられ、李白(りはく)、杜甫(とほ)、白居易(はっきょい)らは独創的な詩風で名声を博します。
一方で漢以前の手法に戻ろうとする流れも生まれ、代表的な作家には文学の韓愈(かんゆ)や柳宗元、山水画の呉道玄、書の顔真卿(がんしんけい)がいます。