共和政ローマ
概要
先住民の王を追放してから、オクタウィアヌスが王になるまでの古代ローマの共和政の歩みを見ていきます。
貴族と平民の権力バランスの移り変わりにも注目しましょう。
まとめ→ローマ
時代
前6世紀末〜前31年
場所
詳細
ローマにはエトルリア人が先住民として住んでおり、王による支配が行われていましたが前6世紀末、王を追放し、共和政が始まります。
貴族(パトリキ)と平民(プレブス)によりローマは構成され、パトリキが握っていた政権をプレブスも獲得していく歴史を描いていきます。
始め、貴族の会議、元老院がその中から選出するコンスル(執政官)が最高役でした。
前5世紀になると、元老院やコンスルに拒否権を発動できる平民出身の護民官や平民の会議、平民会が設けられます。
また5世紀半ばには初めての成文化された法の十二表法が制定、前367年にはコンスルの1人を平民とするリキニウス・セクスティウス法、前287年には平民会が元老院にまさるとするホルテンシウス法が制定されます。
しかし元老院も指導権は持ち続け、非常時には独裁官(ディクタトル)が独裁権を行使できるなど貴族の権力も依然強く残っていました。
征服戦争やポエニ戦争を通して平民間でも経済格差が広がると、共和政もゆらぎはじめ、政治家は閥族派、平民派に別れて争い始めます。
そんな中、前2世紀に護民官に選ばれたグラックス兄弟は改革を試みますが失敗し、「内乱の1世紀」と呼ばれる期間に突入します。
この混乱を武力でしずめたのが、ポンペイウス、カエサル、クラッススの3人で、前60年には私的な政治同盟を結んで政権を握り、第1回三頭政治を完成させます。
カエサルが一時独裁的な力を握るものの暗殺され社会は混乱しますが、アントニウス、レピドゥス、オクタウィアヌスらが第2回三頭政治を打ち立てます。
その中でオクタウィアヌスは、前31年のアクティウムの海戦で、プトレマイオス朝エジプトの女王クレオパトラと結んだアントニウスを破ったことで権力の頂点に立ちます。
アウグストゥスの称号を元老院から与えられたことで彼の帝政が始まり、4世紀を越える共和政は終わりを告げます。
ただ彼は、共和政を尊重する姿勢を取っていたため、カエサルと違い安定した社会を作ることに成功しました。
補足 [共和政とは]
今回度々登場した「共和政」という単語ですが、意味の理解はできているでしょうか。
「なんか平和そう」という曖昧な印象の方も多いのではないかと思いますので、一度ここで確認しましょう。
コトバンクには、「一国を代表する象徴あるいは元首が,人民の中から一定の任期間選ばれる国家の体制(後略)」とあります。
つまり、君主のような絶対的に権力を持つものがおらず、人民が信任した人が国家のトップに立つ体制のことをいうのですね。
英語では「リパブリック」といいます。聞いたことのある方も多いのではないでしょうか。
また、国の名前を呼ぶ時に省略されがちな「共和国」の部分も、国の体制を表す重要度のあるものだったのです。今後はぜひ注目してみてください。
基本的に民主体制を取り民意が反映されることが多いですが、逆に一党で政治を行う(=選挙でそこにしか投票できないため、民意を反映させていると言わざるを得ない)こともしばしばあり、他の政治問題と同様、一概に良いとは言えない体制でもあります。
良し悪しはともかく、現代でも使われるような持続性のある体制が紀元前に成立していたことは、驚嘆すべき事実ではないでしょうか。