日本文学史マスターへの道【番外編】無文字時代から文字時代へ
筆者個は大学で日本文学を学んでおり、
文字の存在に疑問を持ちました。
私たちは、文字が当たり前のようにあるので、コミュニケーションも楽々行えます。
では、昔はコミュニケーションが皆無だったのでしょうか?
いいえ、文字がなくとも何かのやり取りはあったはず。
そんな原点を知りたくて、、、
このページでは、
- 文字のない時代から文字のある時代へという視点
で是非文学を学んでみませんか?
文字がないと文学は始まらないの?
日本には文字がなかった=無文字時代
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文字については、福岡県志賀島の金印や外交文書・刀剣銘に見られる。
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外交の活発化によって文字が伝来したことは確からしい。
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記紀には応神朝に王仁吉師が『論語』十巻と『千字文』一巻を百済王から持たせ奉られたという記述がある。
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ただし、実際に金印などをみると文字の伝来自体は早いものだと思われる。
→文字使用は、雄略朝以降に幹事仕様による記録の範囲が広がったとされる。
→実際に残存するのは推古朝に至るまで金石文や外交文書に限られる。
文字の伝来
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儒書の伝来は継体朝以降と考えられるものの、大陸文化は波状的に浸透し、漢字使用者が渡来した。
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漢字文化の定着によって、文字が行為の記録や意志の伝達の道具となった。
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仏教の伝来は、仏像と経典の将来という形で行われたらしく、経典の読解が人間精神の深奥に分け入る営みであった。
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美術工芸や経典の読解が文字文化の発展を促進させ、特に経典の読解によって個人の心を表現するツールへと文字使用の幅を広げた。
日本特有の文字
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正規の漢文文章に対して、
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漢字の音を用いて固有名詞を記述する万葉仮名表記が行われるようになった。
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八世紀には、万葉仮名表記が確立し、記紀の訓表記や『万葉集』の表記に採用された。
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『万葉集』の表記は、漢字本来の意味に即した訓による正訓と音仮名や訓仮名の借用による万葉仮名とによってなる。
ひらがなとカタカナ
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平安時代に、万葉仮名からひらがなとカタカナが派生し、
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漢字は本来の文字という意味である「真名」、
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ひらがなは仮の文字の意味である「仮名」と呼ばれた。
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ひらがなは和歌や物語表記に用いられ、カタカナは漢文や経典の訓読で発展した。
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仮名の流布が、漢字仮名交じり文=和文体という表記法を生み出した。
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ひらがなは美術的価値を高める一方、
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カタカナは漢字の省略体として不完全な文字とされ、記録や学習といった実用文字として使用された。
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のちに、男が主に使用したとして楷書体の漢字は「男手」、
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女性が主に使用したひらがなは「女手」、
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草書体で字の崩し方が漢字とひらがなの中間にあるものは「草」、
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水辺の草や鳥に似せて書いた絵文字は「葦手」、
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これに「カタカナ」が加えられ、五字体が確立したとされる。
→これは、『宇津保物語』に見られる。
日本における仏教の伝来
- 日本に仏教が伝来したのは538年もしくは552年と言われている。
後者であると欽明朝であり、
国内では異国の信仰を受け入れるか否かによって争いが起こった。
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仏教帰依派は蘇我氏、廃仏派は物部氏で、587年蘇我馬子が物部守屋を滅ぼし、仏教が日本に根を下ろしていくことになった。
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特に聖徳太子(厩戸王)は特に深く帰依し『三経義疏』を記したとされ、
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これは日本人の習得した仏教理解を漢文で記したものである。
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また聖徳太子は蘇我馬子と議して、「天皇記」「国記」「臣連伴造国造百八十部幷公民等本記」を書き記している。
→これらの内容は、国史や各氏族の伝承、家記と考えられているが、完成はせずに、蘇我蝦夷が自ら焼いたとされており、一部が中大兄皇子に献じられたと伝えられている。
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聖徳太子は、内政で「憲法十七条」「冠位十二階」を制定し、外交は小野妹子を遣隋使として派遣している。
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その後、聖徳太子は竜田山の死人を見て悲しんで詠じた歌が『万葉集』巻三に、片岡の飢人を憐れんだ長歌が『日本書紀』に載っており、これに対する返歌が原初の和歌とされている。
歌謡から和歌へ
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皇極朝の頃から、蘇我蝦夷・入鹿の父子の専横が顕著となり、舒明天皇と皇極天皇の子である中大兄皇子は中臣鎌足とともに蘇我氏を滅ぼすことを謀り、645年に入鹿を殺し、蝦夷も死に、蘇我氏が滅んだ。
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初の年号である大化が号された。
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孝徳天皇は難波に遷都したが、皇極天皇は重祚して斉明天皇となり飛鳥を都にした。
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中大兄皇子が天智天皇として即位した。
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『日本書紀』に人の死に直面し悲しむ心を詠む歌があり、これを天智天皇が琴を与えて歌唱させたという伝えがあり、集団の意志や行為の表現ではなく、個人の心情表現として歌が作られ、歌唱されていたことが分かり、歌垣などに見られる集団の意思や行動の表現としての歌謡からの発展が見て取れる。
古代歌謡とは
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古代歌謡は、記紀風土記に収載された歌謡や神楽歌のことで、記紀歌謡と称されてきた歌謡を記紀と切り離し、古代の民謡や芸謡として捉え直す方法論に立つ土橋寛が用いた用語であり、歌唱を前提としており、序詞・譬喩・対句・繰り返しの技法が用いられ、これは民謡の表現技法に通ずると考えられている。
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記紀歌謡には、歌声や歌われた場の喧騒を思わせる古代歌謡が利用されていて、記紀歌謡の研究は古代歌謡の研究を前提にしなければ成り立たないとされる。
口承文学
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『古語拾遺』序に、文字を使う時代になってから古を語る事がなくなったという記載があり、9世紀初頭には、無文字時代は故事を口承するという認識であった事がわかる。
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口承の歌・語りは、歌い手・語り手・聞き手が時間空間を共有し、
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後に形を残さない一回性のものである。
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また、伝承者の記憶によって語られ、筆録されても表情や身振り手振りは伝わらない。
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残るのは、歌や語りのことばのみである。
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口承は伝承者の記憶に頼るあり方であり、不安定なものである。
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そのため、同一パターンの反復という形式を必然的に要求する事となる。
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口承の詞章の改変を忌避する規制が強く働くと推測されるのは、祭式の場である。
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祭式は神に対峙してことばを発し、世の初めの神聖な出来事を追体験する場であった。
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祭式の中では神話が語られ、神話を踏まえて祭式が確立していった時代が書承時代以前にもあったと推測される。
*ディープな話題だったかもしれませんが、文字の重要さ、文字がなくても文学は成立するのかもしれないという可能性を説明しました。
まだまだわからないことだらけ、だから面白いのではないでしょうか。