田沼意次
概要
田沼意次とは江戸時代中期の人物。
徳川家重と徳川家治が将軍だった頃に側用人と老中を兼任して政治の実権を握った。
詳細
出世の糸口
田沼意次が出世の階段を登り始めたのは、家重に仕えるようになったことからでした。
賄賂の横行
さてそんな田沼意次が生きた時代には、「財政難」と「経済成長」が並行して起こりました。
この二つが影響しあってお金で仕事や役職を獲得する構造が出来上がり、賄賂が横行していたのです。
そんな時に田沼意次は側用人(幕府の裏のトップ)と老中(幕府の表のトップ)を兼任したので、周囲にいる人々は「田沼に賄賂を渡そう」と考えるようになっていきます。
こうして田沼意次は賄賂の象徴のような扱いをされるようになったのです。
重農主義から重商主義的へ
では「この頃の政治は賄賂にまみれた悪い政治だったのか?」というとそうとも限りません。 賄賂の横行は田沼時代の一つの側面ではありますが、別の側面から見ると革新的な時代でもありました。 「重農主義」から「重商主義」へと移り変わった時代だったのです。 田沼意次は「米」の時代から「金」の時代へと移り変わっていることに着目して、幕府の財政を重商主義へと転換し商業を重視した大胆かつ積極的な政策を展開していきました。 こうして行われた政策が
- 株仲間の積極的公認
- 蝦夷地開発計画
- 貿易振興
反田沼派
しかし田沼意次の革新的な政治姿勢は、保守的な勢力から反感を買ってしまいます。
大規模な飢饉も発生したことにより田沼意次は旧勢力からの攻撃に晒されて
田沼意次は辞職に追い込まれてしまうのでした。
こうして田沼時代は終了し、その反動として始まったのが松平定信による寛政の改革です。
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