アプリ「okke」で効率よく学ぶ!

日本文学史マスターへの道【付録】④『万葉集』代表歌人


《第一期代表歌人》

舒明天皇

第34代天皇で、天智天皇・天武天皇の父にあたる。飛鳥岡本宮を都とした。

確実に舒明天皇作と見られるのは、1番歌のみ。

これは国見歌で、香具山から見た国土繁栄を詠み、土地の豊穣を保障し、大和支配の正統性を詠う。

おおらかで古代的な歌風

斉明天皇

斉明.jpg 〔『御歴代百廿一天皇御尊影』より「斉明天皇」〕

第37代天皇で、舒明天皇の皇后で、天智天皇・天武天皇の母にあたる。

確実に斉明天皇作と言えるものはないが、7番歌〜8番歌や10番歌の左注に斉明天皇の名が載る。

これは、題詞に書かれた人物が実作者で、斉明天皇が形式上の作者であるという説がある。

天智天皇

天智天皇.jpg 〔『古今偉傑全身肖像』(1899年ごろ)〕

第38代天皇で、舒明天皇の皇子。

即位前は、中大兄皇子で藤原(中臣)鎌足と乙巳の変(大化の改新)により蘇我氏を倒した。

近江大津宮に遷都した。

13番歌〜15番歌は、妻争いを背景とする三山歌である。

大和三山の性については諸説あり、そのほかの訓読などにも問題を抱えている。

鏡王女との贈答歌(91・92番歌)は、実質的な最初の相聞歌である。

天武天皇

天武.jpg 〔『集古十種』より「天武帝御影」矢田山金剛寺 蔵〕

第40代天皇で、舒明天皇の皇子。天智天皇の弟。

即位前は、大海人皇子。

壬申の乱で弘文天皇を倒し、皇室の権威を絶対化した。

蒲生野遊猟歌(21番歌)は、額田王との悲恋の歌と言われることもあるが、宴席での歌であると見ることもできる。

吉野に関する歌もよんでいる。

理知的な歌風

額田王(ぬかたのおおきみ)

鏡王の娘で、鑑王女の妹。

大海人皇子(天武天皇)に愛され、十市皇女(とおちのひめみこ)を産んだが、後に天智天皇に仕えた。

左注に天皇作であることを示すものが4首あり、宮廷代作歌人や御言持ち歌人とも言われる。

宮廷の公の場での歌も多い。

優美で華麗な歌風

有間皇子

孝徳天皇の皇子。

斉明天皇4年、謀叛を企てたとして、行幸先の紀伊国に送られ尋問を受け、藤代坂で絞首に処された。

この際に読んだ歌が、141〜142番歌であるが、仮託説と実作説で意見が分かれている。

哀切な歌風

鏡王女(かがみのひめみこ)

鏡王の娘で、額田王の姉という説、舒明天皇の皇女とする説、藤原鎌足の嫡室という説などがある。

天智天皇との贈答歌(91・92番歌)から、序詞の性格が注意される。

また、藤原鎌足との贈答歌(93番歌)は挑発的・反発的であり、初期万葉の女歌の性格を示している。

《第二期代表歌人》

柿本人麻呂

柿本.jpg 〔柿本人麻呂(歌川国芳画)〕

持統・文武朝の宮廷歌人。

枕詞や序詞などの修辞法を多用し、長歌の形式を完成させた。

後世、山部赤人とともに「歌聖」と称される。

*肖像を掲げて和歌を献じる「人麻呂影供」という風習も生まれた。

日並皇子(ひなみしのみこ)挽歌(167番歌)は作歌年代が知れるうちの最も早いもの。

最も遅いものは明日香皇女挽歌(196番歌)である。

挽歌を多く残しているため、挽歌歌人と言われることもある。

時間表現、主体操作、影の描写など歌の表現性を開拓していった。

重厚壮大な歌風

高市黒人(たけちのくろひと)

持統・文武朝の宮廷歌人。

旅の歌や叙景歌に優れているが、官位は低いままであった。

大和以外での旅先での歌しかなく、土地の景を歌っている特徴がある。

羈旅歌(きりょか)に見られるような家郷や妻を歌わず、去っていく景物を歌い、不安や孤愁を表現している。

*戯笑歌や宴席かもあるか、、、

孤独な心境を漂わせる歌風

持統天皇

持統.png 〔持統天皇〕

第41代天皇で、天智天皇の第二皇女。

28番歌「春すぎて夏来たるらし白妙の衣干したり天の香具山」は有名ではあるものの、問題が多く残されている。

そのほかの歌も不明な点を多く持つものが多い。

大津皇子(おおつのみこ)

天武天皇の子で、謀反の疑いをかけられ自害する。

漢詩も優れており、『懐風藻』に作品が残っている。

『懐風藻』によると、物腰の低さから人々の信望が厚かったらしい。

107〜110番歌は、大津・草壁・石川郎女の3人を巡る物語的展開を思わせる。

奔放で哀切な歌風

大伯皇女(おおくのひめみこ)

天武天皇の皇女で、初代伊勢斎宮となった。

弟の大津皇子を思いやる和歌が有名。

相聞2首、挽歌4首ともに大津皇子に関する歌である。

物語的な構成が色濃く、歌語り的な視点も必要となる可能性あり。

憂いを帯びた歌風

志貴皇子(しきのみこ)

天智天皇の皇子で、光仁天皇の父。

51番歌や1418番歌は明るく鮮明な印象を与え、評価が高い。

一方で、天武皇統のもと、天智天皇の皇子であるため権力中枢から排除され、危険視されていた可能性がある。

印象鮮明な歌風

長意吉麻呂(ながのおきまろ)

東漢系の長氏か。

従駕歌と宴席歌に大別され、即興性の能力に長けていたと推測される。

《第三期代表歌人》

山部赤人(やまべのあかひと)

やまべ.jpg 〔山部赤人像/ 蜷川式胤所蔵品〕

履歴はほとんど不明だが、宮廷歌人で旅の歌など自然を歌う叙景歌に優れていた。

柿本人麻呂とともに「歌聖」と呼ばれる。

異なる時間や空間を対比的に詠出する詠法が赤人流。

叙景歌人たる所以は、短歌にあり、遠近法的な構図を持って観念的に景を仮構する詠法は『古今和歌集』に通じる質を持つ。

清新な歌風

山上憶良(やまのうえのおくら)

遣唐使として唐に渡り、帰国後のちに筑前守となった。

漢文学の素養が豊かで、中国文学や仏教思想を背景とし、人生や社会をテーマとした。

思想的な和歌や漢詩文が特徴的。

仏典などを引用し、生老病死がテーマ文や歌、宴席の官人の歌の二つに大別することができる。

また、宮廷歌についての作歌事情を記した『類聚歌林』があった。

軽妙で知的な歌風

大伴旅人(おおとものたびと)

旅と.jpg 〔大伴旅人(菊池容斎画『前賢故実』)〕

大伴家持の父で、晩年には太宰帥として筑紫に赴任し、筑前守の山上憶良と交友がある。

「筑紫歌壇」とも言われる。中国的な「風流」に影響を受けている。

最初の歌は、60歳の時の吉野讃歌(315〜316番歌)である。

山上憶良と出会い文学環境が整い、周囲の人々を含める多くの歌が作られた。

おおらかで物事にとらわれない自由な歌風

髙橋虫麻呂(たかはしむしまろ)

常陸国在住が長かった下級官人らしいが、履歴は不明な部分が多い。

各地の伝説に取材したものが多く、長歌が特徴。

虫麻呂の作歌は藤原宇合への壮行歌(971〜972番歌)のみだが、『虫麻呂歌集』の歌が虫麻呂作と見られる。

叙事的な歌風

笠金村(かさのかねむら)

資料は『万葉集』にしかなく、不明点も多い。

従駕歌が特徴的で、養老7年の吉野讃歌(907〜912番歌)や難波宮行幸時の歌(928〜930番歌)がある。

これは儀礼的内容を持った従駕歌である。

これとは別に、神亀元年紀伊国行幸時の歌(534〜548番歌)などは相聞的内容を持った従駕歌である。

大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)

大伴旅人の妹(異母妹)で、大伴家持の叔母にあたる。優れた歌人として大伴家持に影響を与えた人物。

『万葉集』編纂に関与したのではないかという説もある。

長歌の恋歌も多いが、恋の贈答歌が特徴的である。

遊戯的で虚構性の強い歌風

湯原王(ゆはらのおおきみ)

志貴皇子の子だが、生没年は未詳。

歌は手慣れたうまさが垣間見え、自然詠や宴席歌、贈答歌などがある。

《第四期代表歌人》

大伴家持(おおとものやかもち)

家持.jpg 〔大伴家持(狩野探幽『三十六歌仙額』)〕

大伴旅人の子で、内舎人・越中守・因幡守・東宮大夫などを歴任し、聖武天皇から桓武天皇までの6人の天皇に仕えた。

名門出身であったが、地方官が多く不遇であると見ることができる。

『万葉集』中最多の400首以上が収められていて、編者の一人と考えられている。

特に、巻17〜20までは家持の歌日記的性格が強い。

繊細で感傷的な詠風は次の代の若への過渡的傾向を示している。

繊細な感性による抒情的な歌風

笠女郎(かさのいらつめ)

大伴家持と恋愛関係にあったとされる。

歌は全て家持への贈答歌。587〜610番歌が質と量ともに注目されており、何回か贈答をしたものが一括にまとめられる形で年代順に記載されている。

狭野弟上娘子(さののおとがみのおとめ)

蔵司の女嬬で結婚が禁じられていたが、中臣宅守と結ばれ、宅守は越前国へと流刑に処される。

その際の惜別の歌が有名。

巻15の後半部分に、宅守との贈答歌があるのみ。

恋情を率直に歌い上げていると見られる。

情熱的な歌風

中臣宅守(なかとみのやかもり)

中臣東人の子。大伴家持との交流の中で宴歌を残す。

田辺福麻呂(たなべのさきまろ)

渡来系と考えられており、橘諸兄の使者として大伴家持を訪ねたらしい。

巻18冒頭の歌が全てであり、即興的な歌を残している。

『田辺福麻呂歌集』があり、長歌主体で独立した短歌はない。

タグ