【世界史】1848年 諸国民の春まとめ
世界史
2025年7月3日
はじめに
みなさん、1848年に起きた歴史的な出来事について、どれだけあげられますか?
1848年に各国で起きた一連の運動を「諸国民の春」と呼びます。
今回はそんな諸国民の春について、詳しくまとめていきます!
フランス:二月革命
背景
七月王政の不満
- 1830年の七月革命で即位したルイ=フィリップは、立憲君主制を維持したが、裕福なブルジョワ層を優遇。
- 労働者・農民・中産市民には選挙権がなく、不満が蓄積。
経済不況と失業
- 1840年代後半に経済が悪化し、失業者が急増。
- 価格も上がり、生活が苦しくなった。
内容
1.改革宴会運動の広がり
- 七月王政下では、政治集会が禁止されていたため、人々は「改革宴会」という名目で政治討論の場を開いていた。
- この「改革宴会運動」は、選挙法の改正などを求めるもので、全国各地に広がっていった。
2.宴会の禁止命令
- パリで予定されていた大規模な宴会を、政府が「治安維持」を理由に突然禁止。
- これに反発した市民や学生、労働者が街頭に繰り出し、抗議デモが始まる。
3.国王ルイ=フィリップ退位
- 首都の混乱に対応できなくなった政府。
- ルイ=フィリップは退位し、イギリスに亡命。
4.臨時政府の樹立
- ブルジョワ共和派と、ルイ=ブランなどの社会主義的な勢力が協力して、「臨時政府」を設立。
- 第二共和政の発足と男性普通選挙制度の採用を宣言した。
臨時政府の初期の改革(2月〜3月)
- 男子普通選挙の導入。
- 労働者支援のために、「国立作業場」を設置。
- 奴隷制度の廃止。
- 労働時間の短縮。
結果
国立作業場の廃止 → 六月蜂起へ
- 国立作業場が6月に廃止。
- これに怒った労働者がパリで武装蜂起(六月蜂起)。
大統領選挙(1848年12月)
- 新憲法に基づき、フランス史上初の大統領選挙を実施。
- ナポレオン1世の甥であるルイ=ナポレオンが圧勝。
クーデタ → 第二帝政へ
- 1851年:再選禁止条項に反発し、ルイ=ナポレオンがクーデタ。
- 1852年:国民投票により、皇帝ナポレオン3世として即位。→ 共和政が終わり、「第二帝政」が始まる。
各国に波及
- オーストリア:ウィーン三月革命
- ハンガリー、ベーメン:民族運動
- ドイツ:ベルリン三月革命→フランクフルト国民議会
- イタリア:民族運動
以下、各国別で二月革命の影響をまとめていきます!
オーストリア:ウィーン三月革命
内容
- 1848年3月13日、ウィーンで学生や市民が自由と憲法を求めて蜂起。
- 長年の専制政治を支えていた宰相メッテルニヒが失脚・亡命。ウィーン体制が崩壊。
- オーストリア全土に革命が広がった。
ハンガリー・ベーメン:民族運動
内容
ハンガリー
- コシュートらが中心となり、自由・憲法・国民議会を要求。
- 独自の政府と軍を組織し、事実上の独立を宣言。
ベーメン
- スラブ民族会議を開催し、スラブ民族の団結を呼びかけ。
- オーストリア帝国の中での民族平等・自治権の確立を求める。
しかし、いずれもロシアの軍事支援を受けたハプスブルク帝国によって武力鎮圧された。
ドイツ:ベルリン三月革命、フランクフルト国民議会
内容
ベルリン三月革命
- 3月18日、首都ベルリンで民衆が自由と憲法を要求して蜂起。
- 衝突の末、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は改革を約束。
フランクフルト国民議会の開催
- 各地の自由主義者が集まり、ドイツ統一と憲法制定を目指す。
イタリア:民族運動
内容
サルデーニャ王国
- 王カルロ=アルベルトが1848年にオーストリアと戦争(第一次イタリア独立戦争)。
- 敗北するが、のちにイタリア統一の中心国家となる。
- 息子ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世が初代イタリア王に。
マッツィーニ
- イタリアの革命家・思想家。
- 「青年イタリア」を組織し、共和制による統一を目指す。
- 1849年、ローマ共和国の指導者となるが失敗。
- 統一には直接つながらなかったが、理想は後の世代に影響。
最後に
諸国民の春によってナポレオン以降のウィーン体制は終焉を迎え、自由主義とナショナリズムが定着するようになりました。
今回のポイントをしっかりと抑え、1848年に運動があった国のその後の動きも併せて勉強しましょう!