【日本史】先土器時代~弥生時代まとめ
はじめに
更新世、旧石器時代、先土器時代、それぞれ何を意味するんだっけ?どこからが弥生時代だっけ?
見落としがちな原始時代ですが、時期の特徴をつかめばあっという間に解けるようになります!今回はそんな先土器時代から弥生時代までを解説します。
原始時代の時代区分
各時代の解説をする前に、時代区分について説明します。原始時代は主に①先土器時代と②縄文時代と③弥生時代に分けられます。
考古学上の時代区分では先土器時代を旧石器時代、縄文時代以降を新石器時代と呼びます。
また、地質学上ではおよそ一万年前に更新世から完新世に代わります。完新世は縄文時代からのことです。気候が変わり生活様式が変わったと覚えるのがいいでしょう。
先土器時代
生活
広い地域を移動しながら狩猟・植物採集を行っていました。ナウマンゾウ・オオツノジカなどがこの時代の主な動物です。小規模で移動性の高い生活を営んでいました。
遺跡
群馬県の岩宿遺跡の発見により、日本にも旧石器時代が存在したことが明らかになりました。
道具
旧石器時代では打製石器が使用されていました。旧石器時代の末期になるときわめて小さい石器を木や骨の柄にはめ込んで組み合わせて使う細石器が著しく発達しました。石器の種類やナイフ形石器には地域差があり、その後の日本の文化や地域性が形成されていく先駆けとなりました。
社会形成
大型の動物の狩猟を通じてことばを発達させたと考えられています。
縄文時代
気候・地形
完新世に移り変わり、今日と似たようなものになりました。氷河が解けて日本列島が形成されました。
生活
食料
海洋性気候となった日本では大型の動物は絶滅して中小動物が狩猟の対象となりました。また、海に囲まれたことで漁労が活発となりました。東日本では落葉広葉樹林、西日本では照葉樹林が広がりました。それによって堅果類や根茎類などの植物資源が豊富になりました。
住居
食料の採取が容易になったため人々は定住するようになりました。こうして竪穴住居はできました。人々は台地上で集落の形成を行うようになり、なかには十数軒の住居が環状に並ぶ環状集落も作られました。こわれた土器などが捨てられる場所として貝塚が出来上がるようになりました。
信仰
死者の弔いには屈葬が用いられました。この時代はあらゆる自然物や自然現象に精霊が宿ると考えられ、信仰されていました。これをアニミズムと呼びます。女性をかたどった土偶も呪術的な儀式が発達したことを示しています。
遺跡
三内丸山遺跡(青森)、大森貝塚(東京)、板付遺跡(福岡)が有名です。
道具
土器が使われるようになりました。磨製石器や、石鏃をつけた弓矢も同時に広まりました。漁労では骨角器や網が用いられました。
社会形成
この時代は集団の統率者がいたものの貧富の差は小さく、平等な社会が築かれていました。
弥生時代
生活
食料
中国から稲作が伝わり、食料を生産できる農耕の開始によって生活の安定度が著しく増加しました。前期はもともと水がたくさん含まれていた湿田が多く存在しました。それに対し、後期には水がないところに水を引いて作る乾田が広まりました。漁労や狩猟、植物の採集による食物確保も依然として行われていました。食料を保管する場所として高床倉庫も作られました。
住居
竪穴式が多く存在しました。集落の周りに深い濠を巡らせて防御した環濠集落も存在しました。
信仰
後期になると手足を伸ばしたまま葬る伸展葬が普及しました。日本各地で銅剣、銅矛、銅戈が発見され、これらは祭器として使われていたと考えられています。
遺跡
登呂遺跡(静岡)、吉野ケ里遺跡(佐賀)が有名です。
道具
稲作には石包丁が使われました。縄文土器に代わって弥生土器が使われるようになりました。後期には斧、やりがんな、刀子などの鉄製工具が普及し、石器は消滅へと向かいました。
社会形成
集落を統率する首長が現れ、地域集団をまとめました。他集団との交易や争いでも主要な役割を果たし、政治的権限を強めました。こうした戦いに勝利した集団は他集団を支配して小国を作ったと考えられます。そして、身分差が明らかになっていきました。
邪馬台国
中国の歴史書『魏志』倭人伝に記述があり、日本列島にあったとされるが、正確な場所や詳細は未だに明らかになっていません。
邪馬台国は3世紀頃に存在し、卑弥呼という女王が統治していたとされています。卑弥呼は宗教的な権威を持ち、魏に使節を送って朝貢したことが記されています。卑弥呼の弟が統治を補佐していました。
身分の差や租税、刑罰などの制度があり、各地で市も開かれていました。卑弥呼は239年に魏に遣使して、「親魏倭王」の称号を与えられました。
最後に
いかがだったでしょうか。気候の変動によって生活がどのように変わったのか、身分差はどのようにしてできたのかなどを押さえておきましょう!