【世界史】洋務運動、変法運動、光緒新政まとめ
世界史
2025年7月4日
はじめに
みなさん、洋務運動、変法運動、光緒新政の違いは答えられますか?洋務運動は中体西用で、、でも中体西用ってなんだっけ?
じゃあ変法運動とは何が違うんだ?
よく間違えがちなこの三つの運動、改革について詳しく説明していきます!
洋務運動
背景
1.アヘン戦争と不平等条約(1840〜42年)
- イギリスとのアヘン戦争で敗北 → 南京条約など不平等条約の締結。
- 治外法権、関税自主権の喪失などで、国家主権が大きく制限された。
2.太平天国の乱(1851〜64年)
- 国内で大規模な反乱が発生し、清朝の統治力が大きく揺らいだ。
- 秩序回復のため地方官僚(曾国藩・李鴻章など)が実権を強める。
3.列強のさらなる圧力(アロー戦争など)
- アロー戦争(1856〜60年)でさらに列強に敗北 → 北京条約締結。
- 欧米の軍事力と工業力に対し、清の後進性が明確になる。
要するに、清は「列強に侵略され、国内でも反乱が続き、どうにか国家を立て直すために、西洋の力を部分的に取り入れようとした」というのが洋務運動の出発点です!
スローガン:中体西用
- 儒教を中心に据え、西洋の技術だけを取り入れるという方針。
内容
- 洋式軍隊の編成
- 軍需工場の建設
- 海軍の整備
- 企業の設立(官営企業):紡績工場などを国家主導で設立。
- 翻訳事業の拡大:西洋の技術書・科学書を中国語に翻訳。
結果
洋務運動は「表面的な西洋化」にとどまり、政治・社会の本質的な改革を伴わなかったため失敗。
しかしその中で育った人材や技術は、のちの変法運動や辛亥革命につながる基礎を築いたとも言える。
変法運動
背景
1.日清戦争の敗北(1894〜95年)
- 洋務運動で近代化を進めてきたはずの清が、明治日本に敗北。
- 軍事・経済だけでなく、政治体制の改革が不可欠と痛感された。
2.列強による中国分割の危機
- ドイツ・ロシア・イギリスなどが次々と中国の港や鉄道利権を奪う。
- 「このままでは清朝は滅びる」という危機感が強まった。
3.改革派の台頭
- 康有為・梁啓超らが変法と富国強兵を主張。
- 光緒帝も彼らの意見に共感し、改革を推進しようとした。
内容
- 科挙の答案用文体である八股文の廃止
- 京師大学堂の設置
- 立憲君主制を狙った制度局の設置
結果
1.西太后ら保守派のクーデターで失敗
- 改革に反発した保守派の西太后が戊戌政変を起こす。
- 光緒帝は幽閉、康有為・梁啓超は亡命。
2.民衆・知識人の反発が増加
- 清の体制に失望した人々が、革命(清朝打倒)へと傾く。
- その後の義和団事件(1900年)、辛亥革命(1911年)へとつながる。
光緒新政
背景
義和団事件の敗北
- 義和団の排外運動に乗じた清が列強と戦い、敗北。
- 北京議定書(1901)によって、莫大な賠償金と列強の支配強化を受け入れる羽目に。
内容
- 科挙の廃止(1905年):儒教的な試験制度を廃止し、実学・近代教育へ。
- 立憲政治の準備:日本の明治憲法などを参考に、憲法制定や議会設置の準備(1908年に「憲法大綱」発表)。
- 新軍(常備軍)の創設:西洋式訓練による近代的軍隊の編成。
- 留学生派遣や新式学校の設立。
結果
教育制度の整備や科挙の廃止、新軍の創設など一定の成果をあげた。しかし、政治改革は遅れ、国民の不満や不信は解消されず、最終的に新政で育った知識人や軍人が中心となって辛亥革命を起こし、清朝は滅亡した。
最後に
いかがだったでしょうか?
- 洋務運動:技術中心の近代化。政治制度は変えずに西洋技術を導入。
- 変法運動:政治制度の改革を目指す。立憲政治や科挙廃止など急進的改革。
- 光緒新政:教育や軍制は進めたが政治改革は不十分。改革の遅れが辛亥革命につながる。
それぞれの特徴や時代背景を押さえつつ、理解を丁寧にするようにしましょう!